俳人摂津幸彦の生きた時代 鮎川信夫論

 

2009.7.8更新


谷川俊太郎は世界に置かれている言葉そのものである


むらしま まさひろ

日本現代詩人会会員

詩集『鵙日和』『見知らぬ人々の肖像』『棚卸著書』

『道具論』『発熱装置』『食欲の論理』ほか


村嶋正浩

 

谷川俊太郎論

 

 

 

谷川俊太郎の身体 

 


本当の事を云おうか 詩人のふりをしているが 私は詩人ではない

 

 

 

 谷川俊太郎に会ったことはない、見たことは一度だけある。天王洲アイルにある劇場に行く途中で目の前を通り過ぎて行くのを見た、そして劇場のロビーでもう一度。小柄ではあるが大きな鳥、それも寒禽の風貌をしていたのが、印象に強く残っている。詩人とは会うものではなく、見るものだ、と思う。

 

 ところで、谷川俊太郎は「戦後詩と私」(ユリイカ1971年12月号)で次のように発言している。

 「明治維新と、第二次大戦における敗戦というふたつのできごとを比べて、そのどちらがより深く私という人間の形成にかかわっているかと問われれば。私はためらいなく前者を答えに択ぶ。明治維新を私は体験していない、敗戦を私は体験している。にもかかわらず、敗戦よりも、維新のほうが私には切実に感じられる。そういう妙な感覚がどこから来たのか私には分からない。たとえて云うと敗戦は私には道路の上の大きな水タマリのように感じられている。歩いてゆく私はどうにかそれを越えられる。が、維新では道路は大きく決壊している。私は途方に暮れる。」

 谷川は詩というより更に深く根源的な表現の母体である日本語の言葉の問題として言及している。

 更に、側に高速道路があって車で走っている人がいるが、私では決してない、とも述べている。私にとっての印象は、戦後初めて高速道路を車で、それもアメ車で走ったのは、誰であろう谷川であった。

 半年ほど前に、本棚の奥にあった雑誌をたまたま見つけて読んで、奇妙な感動を受けたのである。個人的な原因としては、詩から俳句の世界に目を向けて少しばかりの時間がたち、正岡子規の俳句の言葉に興味を抱き初めたことによっているのかもしれない。 

 

 谷川俊太郎の詩集に『旅』がある。これは詩画集で画は香月泰男であり、出版はこの発言から少し前の1968年である。この作品が生まれたのは、ニュー・ヨーク州のハドソン河上流へこの画家と一緒にドライブした旅行の経験にもとづいていると記している。

 作品の中心にある「鳥羽」では、香月の荒々しい筆遣いの横線が描かれていて、それは広大な大陸の地平線上の雲のようにも見え、また大河の水の流れにも見え、太い線が折り重なるように描かれている。

 その上に次のような言葉が世界の最初の宣言のように几帳面に置かれている。

 

 なにひとつ書くことはない/私の肉体は陽にさらされている/私の妻は美しい

 私の子供達は健康だ/本当の事を云おうか/詩人のふりをしているが/私は詩人ではない

 私は造られそしてそこに放置されている/岩の間にほら太陽があんなに落ちて/海はかえって昏い/この静寂のほかに/君に告げたい事はない/たとえ君がその国で血を流していようと/ああこの不変の眩しさ!

 

 この作品の中の発言「何ひとつ書くことはない」についてのまきおこった反響に対して、戸惑いに満ちた発言をしているのだが、私の興味はそのやりとりではなく、家族の肉体に触れている部分である。

 健康で美しくもある肉体が太陽にさらされているという感覚であり、同時に造られたかけがえのないそれらが放置されているという思いである。肉体はこの世界では意味を欠いているという思いから、放置されていると書き記されている。自分の肉体でありながら、自分の手で触れることの出来ないものでしかない物体である。

 寺山修司によれば、「弱者の文学」でしかなかった戦後の詩に、最初の「おはよう」を持ち込んだのは谷川俊太郎である言う。谷川の家族が健康で尚かつ美しいかどうかは知らない。

 彼の新鮮さはまず日本語を話している「私」というのがあって、その一人の人間が世界を見つめているという構造が強固に意識されているのだ。彼は詩人ではなく、断固として谷川俊太郎なのである。

 

 ひどく降りはじめた雨のなかを

 おまえはただ遠くへ行こうとしていた

 悲しみの街をすてて

 とおくの土地へ行こうとしていた

 

 例えばこの「繋船ホテルの朝の歌」で鮎川がよびかける「おまえ」を見ている視線は、谷川が家族をみているものと異なっている。勿論自分の家族と戦友とは同等には扱えないと言うこともできるが、谷川は目にする全てのものを谷川個人のこととして受け止めており、鮎川は鮎川個人のことではなく歴史的な刻印をうけた一人の人間として、つまり詩人として受け止めているのだ。

 詩人であることを拒否する詩人、谷川は断固谷川俊太郎として世界と向き合っているのであり、鮎川は詩人として向き合っているのである。

 それにしても、「鳥羽」の終わりに近い部分で、「言葉への旅は/火星ほどに遠く頼りない」と書き記している。鮎川にとっての言葉は、「おまえ」に対しての埋めつくすべき時間の不足に関してのものであって、谷川のように自分の身体としての言葉に思いを馳せることはなかった。 

 「ユリイカ」の発言をふまえながら読むと、言葉に対する、つまり詩人の身体である言葉への谷川の切実な深い思いに至り、更に生々しく思うのである。

 

 この詩画集が発行された1968年と同じ頃に、鈴木志郎康が詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』(1967年刊)を世に送り出している。谷川の詩と同様に、鈴木のこの作品も同様の意味で衝撃を受けたのである。晒された身体が言葉と化しているのである。時代の相貌から言えば、言葉が思想を語るのではなく、そのような言葉から隔てられた詩人の身体、つまり言葉と化した身体が語り始めた時代ではなかったのか。

 

 ああ、恒常的に衛生的にみがかれた妻の乳房は黙々と生えてくる

 ねじれている

 嫉妬している

 妻は素早く手術台の上に売春処女プアプアを固定する

  黙々と家内が処女生殖器を大陰唇小陰唇処女膜から左右卵巣と手際よくカットしていきます アーアー 只今マイクテスト中

 ゴム製手袋がそれら貴重な小片を握り矢印の鍋の中に詩と血と共に                    「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」

 

 これらの作品に登場する「売春処女プアプア」の身体は余すところなく、どのような小さな襞さえもその陰が剥奪されて光が当てられて晒されている。身体に付着した陰影の意味が剥がされているのである。

 これは鈴木が「プアプア」の身体の部分の様々な名称を羅列して、美しいはずの身体を台無しにしているように見えるが、実はその逆なのである。

 身体が白日に晒され、もはや意味を失ったものとしてしか存在していないという危機意識と不安から、様々な言葉を身体に付着させているのである。かつて生々しくあった言葉で、未だ猥雑でなまなましくあると思いこまれている言葉で埋め尽くしたのである。

 つまりこの作品は、ある種の猥雑さをまったく欠いた世界であり、家庭的で、ほほえましい一家団欒の暮らしの日々を示しているのである。

 詩など誰が必要とするのか。まして詩人はなどと思う。そのように挑発している。神話なき身体が日常の光の中に置かれ、目の前の自分を含めた家族の身体は、それが現実なのか、虚構なのか、いずれにしても意味を欠いて放置されている。

 

「谷川俊太郎の33の質問」の中で、「アイウエオといろはの、どちらが好きですか?」の質問に自らも答えて、きっぱりと「アイウエオ」であると言っている。その理由として、整然とした構造が好きだと言い、「いろは」とは違ってドライで意味がないのがいいのだと述べている。鈴木も「家庭的アイウエオを行う」と言っているではないか。              

 この発言を踏まえて言えば、維新以後の日本語の歴史は、「アイウエオ」と「いろは」の戦いではなかったのか、とふと思うのである。その勝負としては、どちらが勝ったのか、そもそも勝負するといった次元の問題ではないのか、今の私には判断が出来ないでいる。

 ちなみに「アイウエオ」が好きと断言したのは、吉増剛造と大岡信であり、「いろは」と言ったのは、武満徹、林光である。

 

  谷川の詩集「二十億光年の孤独」は、1952年の発行で、もう50年も以前のことであると思うと、驚きである。

 

 三才

 私には過去はなかった

 

 これが詩集の最初の宣言であり、全ての始まりである。私たちにとっては、何が始まって、何が終わったのだろうか、と今思うのである。

 

  

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谷川俊太郎の孤独

 


言葉はいつも過去の時間の意味に犯されている

 

 

 

 詩集『二十億光年の孤独』が世に出たのは1952年のことである。『固有時との対話』(吉本隆明)、『人間の悲劇』(金子光晴)、『魚のなかの時間』(中江俊夫)、これらの詩集も同年に刊行されている。

 ちなみに、『大地の商人』(谷川雁)は1954年、『四千の日と夜』(田村隆一)は1956年、『不安と遊撃』(黒田喜夫)は1959年の刊行である。 

谷川のこの詩集の最初の作品「生長」は、決意宣言のように、「三才/私に過去はなかった」と書き、そして作品の最後の言葉として、「十八才/私は時の何かを知らない」と書き記している。

 作品「二十億光年の孤独」では、「人類は小さな球の上で/眠り起きそして働き/ときどき火星に仲間をほしがったりする」に始まり、「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」で終っている。 

今生きている言葉は絶えず過去の時間の支配下ある。それは生き延びてきた日本の文化と呼ばれているものである。しかし、ここにおける谷川の孤独は、過去から連綿と流れてきている時間の中で培われたものではなく、過去とは途切れてしまった時間に存在する言葉の孤独に近い。

 谷川は孤独を装う言葉さえ持っていなかった、と言える。

 くしゃみをしたという行為は、ある種の孤独な思いに対しての軽みの感覚を帯びている。けれども、それでいて孤独のもっている切実な思いを示している。言葉が孤立し、世界へと繋がっていかない孤独である。

 谷川が孤独であるということの意味は、戦場から生き帰った者の戦死者に対しての思い、生き残ってしまった者が持つ孤独感、或いはひとは孤独な生き者であるという生の在り様を意味しているのではなく、断固として谷川俊太郎を支えている言葉の孤独であり、それ以上でも以下でもない。谷川俊太郎は唯一谷川俊太郎を代表している存在にすぎない。

 鮎川信夫が示したように、作品「繋船ホテルの朝の歌」で述べた言葉の「おれたち」「おれとおまえ」は、谷川にとっては言葉として存在しない。言葉は、鮎川にとっては世界へと通じ和解を求める手だてであったが、谷川にとっては世界へと通じることのない、孤独を示す手だてだったのだ。

 作品に置かれた一見さりげない最初の言葉「三才/私に過去がなかった」は、つまりそのまま「言葉がなかった」という意味であり、世界と和解するにしろ対立するにしろ通じる手だてとしての言葉が存在しなかったのである。まさしく谷川俊太郎の生誕の宣言であった。一つの命の誕生に対して、何かの意味を加えたり引いたりしないという宣言だった。

 「過去がなかった」という宣言を、ひとは純粋無垢な生きものとして生まれてくる、そのような意味としての谷川の宣告だと誤解してはならない。したがって、読者はこの詩の言葉に何かを付け加えて解釈してはならない。例えば谷川の家庭環境等から得た意味を通して、言葉を解釈してはならない。

 「自作を語る」(思潮社現代詩大系)においては、自作の意味に疑問を投げかけながら、「成人してから子供を作ったが、これを自作と呼ぶのは驕慢かもしれない。というように、自作のつもりで実は自作でないものも数々ある」と述べつつ、「自作をつきつめたところにある他作、それが言葉というものであろう。自作なんて糞喰え」と断言している。

 ここに言葉のもっている連綿とつづく歴史という時間、その流れの中にいることでしか存在しえない詩人である自己を見つめている。いわば孤独で苦渋に満ちた谷川がいるのである。そこに言葉に対しての自覚的な新しさがあるのだ。

 

 同じく「自作を語る」において中江俊夫は、自作を語れない、書けないと苛立たしく述べている。

 同世代の中江俊夫も詩集『魚のなかの時間』(昭和27年刊)の中で、地球の外へと世界を広げている。

 

 「魚たちは 夜/自分たちが 地球のそとに/流れでるのを感じる」(夜と魚)

 「遠い 稲妻がある/それを誰も見たものがいない/馬はこうして/二千年も前からここにうつぶしている」 (草原を見つめる馬)

 

 中江もまた自分の言葉の孤独において表現した詩人だと言える。詩集『語彙集』(1969年刊)は正しく詩人がよって立つ言葉の孤独を表現したものである。「僕はこれらの作品を、まちがっても詩とよんで欲しくない」と断言し「語につけくわえるなにがあるのだろう」、と述べている。

 

 儀式。焦り。/非常に。/悪い男。/縛る。/唇。口。呪い。/おきる。 /股。脚。影。/狭い。/中庭。/借金。/あの空。/天気が悪い。/陽が照る。/雨が降る。/風が吹く。/雪が咲く。(以下略) 

 

これは詩集「語彙集」の第一章の最初の部分である。ここでは言葉通りの語彙が羅列されているだけで、何も付け加えていない。もちろん中江によって選ばれた言葉であるには違いないのだが、更にそれに付け加えることを拒絶した世界なのである。これは彼の希望通り詩ではないとしても、作品として成立しているというジレンマのなかにある。つまり詩人であることとのなかに反詩人の意味と力を中江は抱え込んでしまったのである。

  とは言え、読者はこれらの言葉に自分の持っている全ての意味を付着させて世界を構築し、理解してその世界に住みつこうとする。皮肉なことに読者の私たちは、中江が必死になって殺ぎ落とした意味をわざわざ付け加えて、彼の希望を裏切って解釈してしまうのである。

  もしかしてそのような行為は、私たち読者の住む意味の世界に対しての、中江の優しい悪意の復讐なのかもしれない。それも不覚にも、私たちが復讐されていることに気づかないままにである。

 

 ところが谷川も恐らく基本的に中江と同じ位置から出発したのだと思うのだが、その目論見と方法は異なっていた。彼は意味ある世界を描いた。それも完璧な世界を描いたのである。

 作品「二十億光年の孤独」は、谷川のノートの日付によると、1950年5月1日に書かれた。

 「特に天文学に興味をもっていたわけではないが,ひとりっ子で恵まれた環境に育った十九歳の私は、まだ人間関係の中での孤独を知らず、むしろ無限といっていい宇宙の中に投げ出された一有機体としての自分を、さみしいとか、ひとりぼっちとかの感情をあまり伴わずに、孤独と規定していたようだ。」このように振り返りつつ述べている。

 ここで述べられていることは、皮肉な言い方ではあるが、見事に読者にとっては期待通りの完璧な自己解説である。十分納得出来て、付け加えることのない、いわば他者が意味を付け加えることを拒否した解説である。そして深読みして敢えて言えば、谷川の詩の方法にある他者に対しての、研ぎ澄まされた優しいまでの悪意を隠す役割を果たしていると言えまいか。

 中江は言葉から意味ある世界を剥ぎ取ることで言葉たらしめ、谷川は言葉を完璧に意味ある世界として言葉たらしめた。そしてそれぞれの方法で読者である他者に熨斗をつけて押し返したのである。

 だが不思議なことに、読者の私たちは中江の作品から夥しい世界の意味を浴び、谷川の作品から意味を剥奪された世界を受け取るという逆の体験をするのである。

 『中江俊夫語彙集』とそっけなく小さな張り紙をされた詩集は、大判の深紅の表紙で、彼に選ばれて秩序立てられた語彙群が展示されている。しかしそれらは読者に最終的に再秩序化されることを期待され、強要されているのである。だが谷川の場合は基本的にそれらの行為を拒絶しているのである。

 

  谷川には、死んだ犬について書かれた作品「ネロ」がある。

 

  「ネロ/もうじき又夏がやってくる/お前の舌/お前の眼/お前の昼寝が /今はっきりと僕の前によみがえる(中略)しかしネロ/もうじき又夏がやってくる/新しい無限に近い夏がやってくる/そして/僕はやっぱり歩いてゆくだろう/新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ/春をむかえ 更に新しい夏を期待して/すべてのあたらしいことを知るために/そして/全ての僕の質問に自ら答えるために」

 

 ここで語られているのは死んだ犬のネロに対する深い愛着ではなくて、むしろ時間に対する愛着なのである。「新しい無限に近い夏がやってくる」と述べ、彼が確立させた時間、けれど何処かへ、例えば20億光年の彼方にある誰かに向かって、きっともう一人谷川へと流れている時間なのである。

 

 

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谷川俊太郎が詩人であるということ


谷川俊太郎は誰でもない、世界に置かれている言葉そのものである

 

 

 

  谷川俊太郎とはいったい誰のことなのか、このような問いかけは、奇妙な印象を人に与えるかもしれない。だが、この奇妙な思いは、いくつかの詩集を読んだ者にとっては、誰もがふと思い当たる節があるに違いない。

 『タラマイカ偽書残闕』『ことばあそびうた』『定義』『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』更に『コカコーラ・レッスン』、これら様々な様式と内容の作品群がある。奇妙なことに、文体もまた谷川のものというより、あたかも固有なものを意識して避けているかのように作られている。

 それにも関わらず固有な何かの存在を密かに作品の中に潜ませている。その固有なるものの意味するものは、黒田喜夫が黒田喜夫であるように、或いは鮎川信夫が鮎川信夫であるようにではなく、谷川俊太郎の場合は、異質な別の何ものかであるように見える。

 彼は詩人ではなく、断固として谷川俊太郎なのである、このように最初の回に書いた。しかし、彼ほど詩人として世間で受け入れられた人はいない、詩人とは谷川のことだとさえ言える程である。

 彼は詩人であるよりは、言葉なのである。誰でもない何かにおいて、「20億光年の孤独」を出発点にして歩き始め、ずっと歩き続けて来た。

 彼ほど多くの言葉を生み出した詩人はいない。それにも関わらず、彼ほど詩人でなかった人は見あたらない。多くの言葉を生み出したにも関わらず、けれど誰一人として彼の身体に触れたものがないのではないかとさえ思われる。

 言い方を替えれば、自分の固有な言葉を必要としない詩人、言葉が日々の言葉であるというその一点において言葉に生きてきた。詩人としてではなく、他の人々と同様に常人の一人として、言葉に生きてきた。

 

 詩集『愛について』は1955年に刊行されている。その中の作品「鳥」では、生きているものに対してつぎのように書き記している。そこに示されているのは、世界の意味ではなく、むしろ意味から解き放たれた世界そのもの在様に近い。

 

 鳥は空を名付けない

 鳥は空を飛ぶだけだ

 鳥は虫を名付づけない

 鳥は虫を食べるだけだ

 鳥は愛を名付けない

 鳥はただふたりで生きていくだけだ

 

 鳥は歌うことを知っている

 そのため鳥は世界に気づかない

 不意に銃声がする

 小さな鉛のかたまりが鳥を世界からひき離し鳥を人に結びつける

 そして大きな嘘は鳥の中でつつましい真実になる人は一瞬を信じる

 だがその時さえ人は空を信じない

 そのため人は鳥と空を自らを結ぶ大きな嘘を知らない

 人はいつも無知に残されて

 やがて死の中で空のために鳥にされる

 やっと大きな嘘を知り やっとその嘘の真実なのに気づく

 

 鳥は生を名づけない

 鳥はただ動いているだけだ

 鳥は死を名づけない

 鳥はただ動かなくなるだけだ

 

 空はいつまでもひろがっているだけだ

 

 この最後に置かれている一行は、生きものの生死に関しての無常観といった観点から生まれたのではなく、谷川の目でとらえられた空そのものの記述にすぎない。空が存在しているように、鳥もまたただ存在しているのであり、「愛について」と題された作品の世界の基本的な考え方もそこにある。

 鳥は生を名付けず、動いているだけならば、詩は存在の意義を失い、本質的に人は言葉を必要としないはずである。

 鳥が囀り、寄り添い、季節の移り変わりで移動をする、もしそこに何らかの「愛について」の意味を見いだしたならば、詩人の生誕となるに違いない。

 谷川はその意味において、彼以外の詩人という生き者を敵に回して、作品を生みだし続けてきたのかもしれない。動くものを意味づけ、存在するものを名づけることで言葉に生きてきた詩人に対して、谷川はまったく別の生きものとして生きてきたのである。絶えずそのような行為を拒絶し回避することで、言葉に生きてきた詩人である。

 谷川俊太郎は誰でもない、世界に置かれている言葉そのものなのである。

 

 ところで、田村隆一の詩集『四千の日と夜』(1956年版「荒地詩集」)にも射殺された鳥が登場し、世界にその死の意味を投げかける。

 

 空から小鳥が落ちてくる

 誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために

 野はある

 

 窓から叫び声が聴えてくる

 誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために

 世界はある

 

 空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない

 窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

                   「幻を見る人」より

 

 田村隆一の作品と谷川俊太郎の作品を読み比べてみると、田村隆一の作品はなんて言葉が楽天的なのだろうかと思う。確かに作品「四千の日と夜」は「愛について」より遙かに悲痛なる言葉の意味に満ちている。けれども言葉に対する覚悟の点からみれば、なんて楽天的なのかと愕然とする。

 田村の目は「射殺された小鳥」に向けられており、更に言えばその小鳥の向こうに広がっている世界、その小鳥を支えている世界へと向けられている。言葉を疑いもなく信じながら、小鳥の置かれた世界の意味を撃っている。

 小鳥を通じて、取り巻く空、野原、窓、部屋といった世界の構造に対して視線を向け、そこに隠されている意味を掘り起こし、世界を取り込んでいる。

 勿論その行為の中で、世界へ向かっての言葉の非力さの思いを、田村はひしひしと当然感じていたに違いない、それは十分この作品からは理解できる。

 しかし、それは谷川が言葉に対して思い抱いていたこととは別で、確実に遠い隔たりがあった。

 田村をはじめ「荒地」の人たちはなによりもまず詩人だったということだ。更に言えば、彼らは谷川とは異なって、自己の詩人の存在を基本的には少しも疑わなかった。詩人にとって見れば、まず生きる前提として言葉が疑いもなくあった。

 言葉は恐ろしい生きものである。世界と私とを引き裂く、或いは激しく結びつける。そもそも言葉そのものが世界の全てなのかもしれない。

 

 「詩劇のためのスケッチ」と副題した詩劇「部屋」は荒地詩集1958年版に掲載されている。

 一組の男と女によって次のような台詞により舞台、つまり世界が始まる。けれど決して始まることなく、始まる予感もなく終わりを告げる。

 

男 君は誰?

女 誰でもないわ、まだ。

男 ここはどこ?

女 どこでもないわ、まだ。

男 では何をしているんだ、君はここで。

女 なにもしていないわ、まだ。

 

 この男女の会話は、放送予定の演劇として演じられていることを、最後に登場するプロデューサーの人間により種明かしされる。更に女は文芸座の山本ゆりであることも告げられる。

  だが女はその名付けられた人で在ることを拒否し、「誰でもないわ、まだ。ここがどこでもないのと同じように」と告げて、世界は終わる。

 終わるという言い方は正確ではない、詩劇の世界は始まっていないのだから。

 谷川は先ず言葉があるという詩人の前提を疑いをもって生きてきた。もっとも疑いをもつという発想は、そもそも最初からなかったのかもしれない。

 むしろ、谷川はそのような詩人として生まれなかったと言える。彼は詩人ではなく言葉である。

 谷川俊太郎は誰かという問いは、従って問いとして成立しない。言葉に過ぎないからである。

 

 

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谷川俊太郎のコカコーラ


加藤楸邨は「もの」に、谷川俊太郎は「言葉」にとりつかれた

 

 

 

 ある朝ぼくが起きると

 部屋のすみでミーニャが死んでいた

 ぼくは彼をタオルでくるんで棚の上に置いた

 棚板と同じくらい固くなっていた

 飼い主であるぼくの女はまだ眠っていた

 

 ミーニャはいつもひとりごとを言っていた

 まだぼくと女が別々に暮らしていたころ

 電話すると女の声のうしろで必ず彼の声が聞こえていた

 でも年とってから無口になった

 すぐ人のひざの上に乗った

 ・・・・中略・・・・・

 ミーニャは女の住んでいた家の前の林に埋めた

 線香を立てて花も飾った

 十一月になって妻は離婚届に判を押した

 妻は死ぬまでぼくに腹を立てつづけるだろう

 息子と娘はぼくに気を使ってくれるが本当の気持ちは分からない

 

 生れたる猫の子われの膝と逢ふ 楸邨

 

 この作品「猫たちと」は、加藤楸邨句集『猫』に寄せて栞として谷川が書いたものである。

 楸邨の猫もミーニャも膝と逢ったのではなく、厳密に言うと、膝と名付けられたものと逢ったはずである。作品の優劣としてではなくて、二つの作品を比べてみると、谷川がものと言葉を見極めて書いていることが分かる。それは俳句と詩の言葉の違いを述べているのではない。

 私たちは言葉でしかものと出会えない。だが楸邨は言葉を越えて、ものとの出会いを求めた。

 

 ところで、コカコーラを初めて口にしたのは17歳の時で、東京タワーが完成した頃だった。場所は松戸にあった米軍基地で、近所の英語の塾に遊びに来ていた少年兵の兵舎に遊びに行った時である。味の善し悪しを越えた強烈な味で、正しくアメリカの味だった。私はそのとき「コカコーラ」という言葉に出会ったのであって、飲み物に出会ったのではなかった。

 谷川の詩集『コカコーラ・レッスン』は一九八〇年に世に出ている。題名となった作品に登場する少年は、彼自身なのかどうかは分からない。しかし、少年にとってはすでにもう身体の一部であり、そのような飲み物であった。無論言葉としての身体という意味を含めてである。

「その朝、少年は言葉を知った」、このようにして始まる作品は、言葉とものとの関係と、それを取り巻く世界との出会いの意味を教えてくれる。ここで象徴的に取り上げられているのは、コカコーラであって、樹木や鳥や魚、つまり自然の中のものではないことである。更に言えば、「コカコーラ」という言葉であり、けれど「鳥」や「魚」と同じ意味での言葉である。

 この作品は作品名の通り、言葉のレッスンであり、コカコーラという言葉と向き合っている。

 そのお話の概要はこうだ。ある朝、突堤に腰を下ろしていて海を見ているぼく。<海>と<ぼく>という言葉を思い浮かべた少年は、海という言葉と目の前の海、更に手にしていたコカコーラのカンから夥しい言葉に襲われる。暫くして、穏やかな海を目の前にして、泡立つ暗色の液休を飲み干し、カンをいつものように海に投げ捨てずに踏みつぶす。

 こうして、作品は次のようにして終わっている。

 

 その朝、少年は足元の踏み潰されたコカコーラのカンを見下して、ただ一言「燃えないゴミ」と呟いたにすぎなかった。

 

 少年はコカコーラのカンに、それともコカコーラという言葉に言ったのだろうか。

 谷川は作品において言及しているのは、ただ一点「言葉」についてだけであり、様々な語り口と素材を作品で示しながらも、言葉の意味を言及しているに過ぎないのでないのかと。すれば、それは詩人にとって身を滅ぼす程の過酷な行為である。

 

 作品「猫たち」においては、彼の日常生活の断片らしいものが描かれている。そこは特別にいらだっている言葉がある訳ではなく、時間が淡々と進んでいくように、言葉も秩序正しく置かれている。時には過激に世界と向き合うことがあってもなのである。

 猫の死も、女との出会いも別れも、言葉として置かれている。加藤楸邨の言葉と谷川のものとの相違は、明らかに言葉の置かれ方である。

 楸邨は言葉ではなく「もの」に、谷川はものにではなく「言葉」に取り憑かれたのだと言える。

 

 

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『定義』と『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』と


完璧を求める発語者は言葉の海に溺れ息絶えてしまうに違いない

 

 

 

 言葉はそもそも定義したがるものかもしれない。勿論それは人間の欲望に添って存在しているのであるから、愛について、憎しみについて、死について、ついには正義についてと、様々なものを定義して自らの存在を証明しようとする。

 不幸にして、詩はその為の表現方法の一つとして作り出されたのかもしれない、このような言葉の不幸を詩集『定義』は取り扱っているように思える。

 詩集『定義』の最初の作品は「メートル原器に関する引用」であり、平凡社・世界大百科事典によると注記されている。この作品の眼目は、パリ郊外の国際度量衡局に保管されている「メートル原器」が原器たる役目を終えている、つまり光の波長で定義されたものを現在は使っているとのことである。

 定義が定義であることの意味、それは例えば愛の定義が定義されることの意味を、言葉自ら問うてしまうのである。愛は定義されたとたん、愛は証明されることへの道をひた走りに走り続けて、定義自体を証明する羽目に陥る。

一つの事を定義するには多くの、もしかしたらすべての言葉を動員しなければならなくなるに違いない。ならば、そのとき定義されたものとは、言葉があるということのみである。

 あるものが目の前にある、つまり見える何かが在るとき、人はそれをコップと認識する人にとっては、水を飲むコップである。だが、コップと認識しない人にとっては、何ものでもない何かしらである。・

 

 紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。

 …中略…

 答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに……

 作品「りんごへの固執」より

 

 定義を述べるということは、言葉の死に至る病である。恐らくそれを「それ」と言い、指でさし示す以外に、それの全休を示すことは不可能である。りんごを言葉で追求する限り、絶えずりんごの廻りを堂々巡りの徒労のうちに、その完璧を求める表現者は言葉の海に溺れ息絶えてしまうに違いない。

 そのような詩人の姿を谷川はこの詩集で見せてくれる。定義しようとすることは、言葉を自由に駆使したいと思う人の生きものとしての業病である。それを自覚している人を詩人と定義するならば、彼は唯一の詩人なのかもしれない。

 詩集『台所でぽくはきみに話しかけたかった』は、「定義」と同じ時期に世に出ている。いくつかに区分けされた言葉の群れに、武満徹に、小田実に、谷川知子にと名指しで標示されたものがあり、何ごとかが語られている。それは当人しか分からない部分を含みながらも、見知らぬ移しい読者にも共有できる領域もある何ごとかである。朝ではない夜中で、居間や寝室ではなく台所で語る谷川は、定義ということから対極にいる。

 

 飲んでいるんだろうね今夜もどこかで

 氷がグラスにあたる音が聞こえる

 きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ

 ぼくらの苦しみわけはひとつなのに

 それをまぎらわす方法は別々だな

 きみは女房をなぐるかい?

 

 これは武満徹に、と書かれた作品の部分であるが、これは「話しかけたかった」ということが書かれているだけであって、ここに記述されているのは、その事実や、ましてや真実から遠く隔てられている何かしら、定義されることのない何かである。

「女房をなぐるかい?」と谷川は口にし、殴ったことがあるのだ、と思うのは読者の勝手なのだが、定義の意味を示し、そしてこれらの作品を示したことは、「話したかった」ということの内実ではなく、言葉の在り様だけではなかったのか。つまり、谷川は女房を殴ることも、殴らないことも、それが愛についての定義とは外れた領域で、言葉として記述しているに過ぎないのだ。それでも、「女房をなぐるかい?」と語りかけるのは、ただ話しかける言葉が欲しかったに過ぎない。それこそが定義の内実なのだ、と言いたげに。

 

 

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『タラマイカ偽書残闕』を読む


谷川俊太郎のの本音と、言葉の本音

 

 

 

「われわれふつうに生きている人間にも、日本だからこの場合は日本語なのですが、日本語が一種の皮膜、あるいは殻みたいになってわれわれの魂にくっついてきてしまっていて、それが逆に、われわれのほんとうに生き生きしたからだに結びついた言葉を発するのを妨げている。

 つまり思いやりという事実を知る前に、思いやりという言葉が与えられてしまって、その言葉だけが独り歩きしていて、実際のそういう心の状態あるいは行動が、われわれにはわからなくなっているということが、おおざっぱにいうと、言えるようなきがするのです。」

 谷川俊太郎は大江健三郎と河合隼雄との共著「日本語と日本人の心」のなかで、このように述べている。「思いやり」を別の言葉に、「孤独」「うんこ」「女」どのようなものにでも置き換えてもいい。

「簡単に言うと、日常会話であれ、短歌を書くにしろ俳句を書くにしろ、あるいはほかのものを書くにしろ、やはり本音を書かなきや創造的になれない」

 更に谷川は続けてこのように述べているのだが、本音を述べなくてはならないという言い方に、奇妙な感動を覚える。

 言葉が皮膜となってものに直接触れることを妨げ、分からなくなってしまうことと、それにも関わらず言葉でしかものは触れさせてくれないこととの振幅に、詩人は言葉において生き続けている。言葉に生きている谷川にとっての本音とは、心の問題としてのものではなく、言葉のあり方について述べたに相違ない。つまり、言葉の本音としてである。

 ところで、『タマライカ偽書残闕』は、何が言葉の真実かを明らかにしている。厳密に言うと、言葉のあり方を語っているのかもしれない。

 ここに詩のような言葉群があり、それはもとをたどれば、クマライカ民族なるものもが口伝えにしてきたものを、言葉に起こしたものらしい。創世記と伝えられるものの断片らしいのだが、スウェーデン語への翻訳者、仲介者としての老船長、ウルドゥ語による記録者、英訳者、更に日本語への記述者へと転々として、いまここにあるのだと言う。

 ところが、実はそのタマライカ民族なるものも果たして存在していたのか不明である。口承そのものも疑わしく、誰かが勝手にでっちあげたものかもしれず、更には、更には、という具合にその言葉の出所の根拠さえも疑わしくなっていく。けれど、ここに言葉として存在しているからには、これらは何かを伝えるべく存在しているのだと主張する。

 この作品は最終的には偽書として提示されており、言葉のもつ奇妙な存在の仕方を示している。しかしいずれにせよ、この作品は最終的には谷川の手によるものである、と私は信じている。でももしかしたらタマライカ民族が伝えたものかもしれない。或いはタマライカ民族の口承によるものだと称して、誰かが−谷川が創作したものかもしれない。

 この堂々巡り、言葉の存在の根拠は何なのか。よくよく考えてみると、谷川が唯一その底なしの沼に溺れ死ななかった詩人ではないのか。彼が書き続けてきた移しい作品は、まさしくそこで披が書いた意味は、実に危ういものでしかない。確かに作品を書いた、けれど彼は谷川俊太郎が書いたという意味の痕跡を消し続けることにおいて、作品を完成させてきた。つまり、日本語で書いたと言う意味以外のなにものも付け加えないで作品を書き続けて来た。

 荒川洋治は谷川俊太郎とは異なって、言葉のこの作用を逆手にとって、逆に自覚的に痕跡を刻印してきた詩人なのかもしれない。従って、谷川は日本語の言葉を使って詩を書くことのみに賭け、決して谷川の自家製の言葉、自家製の香料や調味料で味付けした言葉を使わなかった。これは凄いことだ。成熟した自分の味などてんから信じてない。自分の衣装である文体を持とうなどとは思わない。自分を刻印したすべてのものを言葉から排除し、その排除する力で作品を作り続けているのである。

 荒川洋治はまったく逆に言葉の中に自分の刻印だけで作品を作り上げる、それも有りのままになのである。しかし言葉の世界に自分が直接繋がっているとは思い込んでいないので、より見事に有りのままなのである。誤解してはならないのは、作品の中で語られている内容が有りのままではなくて、言葉の作用を利用するやり方がそうなのだ。本来的な意味からすれば、鮎川信夫は正しく有りのままだったと言える。

 

 編集者Aはいう 荒川さんはへただよ、

 Kさんなんかその点うまいもんだ、

 本になりそうな仕事をえらんで

 実に効率よくやっている、

 ほら、また一冊出たでしょう? (ライフワーク)

 

 荒川さんが登場するこの作品に、当人を見てしまう読者がいたならば、読むという行為を誤解しているとしか思えない。勿論そのような読者は、谷川俊太郎の作品『タマライカ偽書残闕』も同様に誤った読み方をするに違いない。                                                           

 

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