村嶋正浩



鮎川信夫論


 

 

 

  Mは誰のものか。

 

 

 

 鮎川信夫は大正九年八月の生れで、昭和十七年十月に青山の近衛歩兵第四連隊に入営した。翌年五月にスマトラ島に派遣されたのだが、マラリアと結核を患い翌十九年五月に病院船で帰還している。

 大正八年二月生れの俳人森澄雄は、入れ替るようにして、この同じ年の七月に門司より船でフィリッピン・ボルネオに向って、その後に九死に一生を得て帰還する。

 

 船団二十一隻、船倉一畳に十二人詰め込み、しかも兵器は与えられず、兵員のみの輸送、僅か時速七ノットであった。甲板の上も兵隊で満艦飾、敵潜水艦にとってはまさに好餌、案の定バシー海峡で毎晩轟沈相次ぎ、マニラに着いたのは僅か三隻、ボルネオには敵機の爆撃を受けつつ島伝いに機帆船で向った。ボルネオでは死の行軍と呼ばれている「北ボルネオ転進行動」に参加、ジャングルの中を二百余行軍、食料も乏しく、マラリアに倒れ、三八式歩兵銃で自殺する者多く、途中死屍累々であった。ボーホートで戦闘開始、兵器は三八式歩兵銃に弾二十五発、敵(オーストラリア軍、後英印軍)は自動小銃に火炎放射器など、勝敗の帰趨は明らか、……ボルネオから帰還した者、中隊で僅か八人。原爆の長崎に復員した。いま小学校の同窓で生きている者は一名、大正八年生まれの半数以上は戦争で死んだと言われる。ぼくは、戦後、結婚したら妻を愛し、子供をいつくしみ、範囲は狭いが付き合う人と仲良くし、平凡な人生を送ることを決意、俳句もまた人間として平凡な素直な思いを深く詠みたい、思った。

 

 これは俳誌「俳句」(角川書店刊 平成十一年四月号)の特集「<大正八年組>傘寿記念特集」に掲載された俳句に添えられた森澄雄の文章である。この凄惨な(としか、私には言葉がないのだが)戦争体験を経て、かれは戦後の慎ましい生活の家族にのみにこだわり俳句を作り続けた。

 枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ

 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり

 その後に芭蕉の抱え込んだ遥かな世界に旅することに、芭蕉もまた旅の中で、多くの先人の戦いの跡に思いを寄せたように、森澄雄は自分の視座を置いたのである。

 凄惨な戦争体験をして、その体験ではなく、身近な家族のみを詠むことに向わせたのは何であったのか。私の勝手な憶測では、たった十七文字の俳句では、表現として十分応えられないからとの判断ではなく、むしろ文学として表現する意味や意義を拒絶したのではなかったかと思われてならない。

最近になって再び鮎川信夫の詩を読んでみようと思ったのは、森澄雄の作品及び俳論との出会いからである。

 

 鮎川信夫詩集(思潮社 現代詩文庫 九)の最初に目にする作品は、「死んだ男」(昭和二十二年一月「純粋詩」)である。この詩集ではこの作品が重要な作品、読者がまず読まれるべきものとして置かれている。勿論これはこの本の企画編集者(長田弘)の意向によるのだが、私ならば同時期に書かれた「姉さんごめんよ」(後に「あなたの死を超えて」に再録)を置いたに違いない。

 更に「もしも、明日があるなら」から、「アメリカ」「日の暮」「船ホテルの朝の歌」「橋上の人」と続き、つまり読者はこの順番に読まされて、これらの作品を一括して「橋上の人」との表題でくくられている。

これらの作品の並べ方は、書かれた年月の順序に拘泥せずに、「死んだ男」の理解に便利なように、作品の内容の顔である「面」で区分して提供しているのである。

 鮎川信夫は「詩は、あくまでも個人の内面生活を深化させるためにある」として、詩集が「面」として組まれて読まれることの不満を述べつつ、作成年月に応じて『鮎川信夫自薦詩集』(立風書房)は作られたと述べている。

 この自薦詩集では作成年月に応じて大きく区分していて、敗戦後の区分の最初の作品は「トルソについて」であり、「死んだ男」はその次に掲載されている。敗戦前の区分の最後の作品は「橋上の人」(初稿)である。

 いま言えることは、日本人の多くの読者にとっては「死んだ男」こそが、なによりも敗戦後の出発点として読むに相応しい作品として位置づけられ、その期待を担わされた詩人として鮎川信夫はいたのだと。「Mよ」と呼びかけた作品が、人の心を捉え多くの読者を獲得した。

だがそれは鮎川信夫の思いと必ずしも一致していたのではなく、むしろ忸怩たるものではなかったかと、それ以後の作品を読み返してみて、改めて思うのである。

 「Mよ、地下に眠るMよ/きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」と、最後の一節は多くの人の心を捉えたに違いなく、「傷口」という言葉の意味は、鮎川信夫にとっては特定の「傷口」、自分以外誰も触れてはならないものであった。彼らが共有していた「荒地」の世界での「傷口」、Mと二人の秘密の傷口であったはずだ。

「M」を身近な親族や友人の戦死者として、当然多くの読者が読んだことに間違いなく、鮎川信夫から見れば許しがたい誤読により、多くの支持を得たのである。

 それ以後の作品を読むに従って、私の抱いた居たたまれない困惑は、読者が寄せる「Mの傷口」への思いとの齟齬が起因としているからではないか、と。

 つまり鮎川信夫だけの「死んだ男」であり、誰にも口を挿ませない「傷口」であり、絶えず「M」はどのような人間だったかと確認し、他人の思い入れを拒絶する作品、自ら追憶してやまない作品を書き続けたのである。

 

 

 

 

 

  Mは誰なのか。

 

 

 

 「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」

 Mよ、地下に眠るMよ、

 きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか

 

 この一節で世間に広く知られた「死んだ男」は、戦後の一つの時代の意味を刻印した作品として読まれ、多くの読者を獲得した。

 「M」については、森川義信の「M」であることは知られており、鮎川信夫にとっての掛替えのない友人であった。戦死した森川に対する鮎川のひたむきな思いを、読者は自分の身近なひとの死と読み替えて、Mに心を馳せ、「死んだ男」の世界に触れたれたのである。

作品を読むということはそれ以上でも以下でもない。例え死んだひとがMという名に該当しなくて、Aであろうと、Xであろうと、それは些細な事にすぎない。

 森川義信がどのような詩人だったかという問いと、鮎川信夫にとってどのようなひとだったかという問いは、まったく別の次元の問題である。この作品にあっては、森川義信はあくまでも鮎川信夫にとっての森川義信に過ぎないのであり、Mはその象徴としてのひとである。当然このことだが、読者にとっての森川義信という関係を意味してはいないのである。

 従って、私が詩人森川義信の作品を読んだところで、彼の作品の理解を深めることはあるにしても、直接「M」を理解する事の有用な手助けにならないことは、当然である。敢えて誤解を恐れずに言えば、皮肉な言い方になってしまうが、森川義信にとっても、描かれた作品上のMの「傷口」は預かり知らぬものである。つまり鮎川自身の思い内にあるものでしかすぎないからである。

 このような考え方に踏み込んでしまったのは、何故鮎川はこのような作品を書いたのかと、不思議な思いを拭い去れないからである。詩人であれば、詩人でなくても言葉で表現しようとするものは誰でも、身近な親しい人の戦死を現実に受け入れることが出来なくて、その辛い思いを表現することには当然の行為である。それにも関わらず、鮎川信夫はどうして「死んだ男」をこのような内容で書いたのだろうか、と思ってしまうのである。

 

 靴の溢れる廊下では

 夢みることは許されない

 掌は紅い薔薇の花を

 デスクの上に植えてみたが

 白い大理石はやはり冷たい

 音もなく音なく

 脚はいつか死んでいる

 パイプから水もながれず

 あの憂鬱な眼は

 花と大理石の間で

 ガラス絵のような夢を

 反芻する       「夢の使用時間」

 

 「夢の使用時間」は「LE BAL 十九輯」(昭和十四年二月刊)に発表され、この詩誌は、中桐雅夫が昭和十二年に編集発行していた「LUNA」を改題したもので、昭和十七年九月に終刊となっているが、森川義信も同じ同人であった。

 この作品の世界は何事かが意味ありげに語られている。「死んだ男」が明快に具体的な意味づけで語られているのとは異なって、言葉は具体的に意味あるものとして置かれているが、意味をたどることが出来ない。それらの言葉が何かの象徴としての意味において、語られているにしても、Mの世界のような手触りがない。ある意味では現実の世界は閉ざされていて、その世界の何かしらのものを言葉が触れているに過ぎない。

 鮎川にとっては、世界は閉ざされていた、つまり見るべきもののない世界に過ぎなかった、と言える。だがそれは傷つきやすい青年の閉ざした心の在り様と云うことではなく、それとは異なったものの見方があった。この作品を読めばすぐ分かることは、抒情詩のもつ言葉とは異なって、硬質な表情をしていることである。閉ざされた世界との、あるいは鮎川の心を傷つけられたと思われる現実世界との交流が欠如しているのが、その原因と思われる。作品の世界では、あくまでも言葉の世界が自ら閉じた世界として存在しているのである。

 むしろ鮎川は閉ざされ世界が何であるかを悟らせまいとして、強固な言葉の世界を構築でもいるかのように書いている。更に言えば、「荒地」の仲間との、あえて限定すれば森川との、秘密の詩的行為として書かれたかのように見えるのである。それが森川の戦死によって一挙に崩壊し、詩の方法も同時に崩壊したのだ。

 つまり、Mをはじめとする「荒地」が抱え込んでいた閉ざされた世界、言葉を生み出すはずの作品の基盤であった世界が崩壊することによって、「死んだ男」の生々しい世界が露呈したのだ、と見える。

 本当は森川の死も当然閉ざされた荒地の世界に封じ込めるべき出来事のはずであった。既に彼らにとっては、森川の死以前の詩誌「LUNA」の時代においても、世界は終っていたものとして詩を書いていたからである。

だが、「きみの胸の傷口は今でも痛むか」と鮎川は、思わず言ってしまったのである。

 

 

 

 

 

  姉さんの死。

 

 

 

  亡姉をモチーフにして書かれた作品には、『姉さんごめんよ』(「純粋詩十五号」昭和二十二年)、『落葉』(「造型文学三十二号」昭和二十四年)、『あなたの死を超えて』(「荒地詩集1952」昭和二十七年)があるが、『あなたの死を超えて』は『姉さんごめんよ』を一部書き直したものに基づいた作品である。

 

 生きのびてゐる私のうへに

 あなたにとって忘れがたい悲しみの面影がうかぶときうつくしかつた姉さ  ん!

 いまでは墓穴にかくれひとりで牛乳を匙ですくつて ほそい咽喉に流しこ  んでゐる姉さん!

 あなたはむろん黙つてゐるけれど

 愛と死の隠れんぼはやつぱり楽しいものだらうか

 あなたの育たなかつた乳房や

 あなたが男を誘惑するはずだつた可愛いい頬の黒子のことを

 私はかぎりなくうらめしく思ふ

 影になつたあなたの子供らしい微笑が

 情慾に飢ゑた私の魂をやさしく愛撫する

 姉さん!

 ・・・・・・・・以下略   「姉さんごめんよ」

 

 『あなたの死を超えて』では、「生きのびてゐる私のうへに」が「生きのびてきたわたしの心に」と、「あなたにとって忘れがたい悲しみの面影がうかぶとき」が「忘れがたい悲しみの面影がうかぶとき」に、「姉さん!」が「純潔だった姉さん!」に修正されている。

 実生活では姉がいない鮎川にとっては、彼が「あなた」と呼びかける「姉さん」を、詩の世界において理想化された死者として存在させたことに意味がある。「私のうへに」が「わたしの心に」に、「姉さん」が「純潔だった姉さん」に書き換えられることにより、単なる肉親の姉から一緒に生きるべき理想化された人、それも手の触れる事の出来ない恋しき死者に変貌させたのである。

 輝かしい、純潔の人格を得たひととしての聖母、いや聖姉(という言葉はないかもしれないが)として、鮎川の心に描く荒地の唯一の住人として、「純潔の姉さん」を住まわせたのである。それは親友森川義信の戦死に触発されて顕在化したと言えるのだが、彼の成長過程で育て上げられた死の世界の象徴としての住人であった。

 

 鮎川信夫の評判の高い作品としては、「死んだ男」「橋上の人」「アメリカ」があるが、自分の世界に自ら踏み込んだ作品としては、「あなたの死を超えて」が最も優れたものと言える。「戦後60年<現代詩>再考」(「現代詩手帖」平成十七年八月号)では「名詩選」として選者十名が九十五篇選出している。鮎川の作品では、「死んだ男」を辻井喬が唯一あげているのみである。

 誤解を恐れずに言えば、「死んだ男」の世界は他の誰にでも書ける作品であるが、「あなたの死を超えては」彼以外には書けなかったのではないかと思う。

 鮎川の「荒地」のイメージは、姉の死により具象化された世界として示されている。最も身近な肉親であり、一緒に暮らして二人だけの世界を育てた人であり、その人の死によって、生きるすべをなくしてしまった思いの丈として示したのである。姉がいないことが逆に、理想の姉の豊かなイメージを育てて、詩の世界に住まわせたのである。共に生きた世界の死、その姉にまつわる死の豊かなイメージの中に戦後を歩もうとしたのであり、つまり「純潔だった姉さん」の死の確認は、そのままMの死を通じての荒地の再確認としての意味であった。

 牟礼慶子(「鮎川信夫からの贈りもの」思潮社)によると、「姉」のイメージの成立は、鮎川の愛したリルケの詩の中の「全く小さくて死んだ姉」という作品によるのではないかと述べている。恐らく鮎川にとって、共に暮らすべきはずの姉への憧れとその不在、つまり死の不安がもたらす思いに支えられた世界は、リルケの作品と出合って顕在化されたものに違いないのだ。

 

 ここでは静止する石ですら

 すこしずつ海のほうへ動いているのですよ

 生きることを諦めるには

 母なる海と太陽の光が強すぎます

 わたしはこの香ばしい微風のなかに家を建て

 ひとりの妻と住み家畜などを飼ってみたくなったのです   

 黒い森のうしろにいて

 あなたのつぶらな瞳を閉じていますね

 そして永遠に死んだふりをしているのですね

 

 これは『あなたの死を超えて』の最後の部分である。

 「純潔のお姉さんの死」を荒地の中に位置づけ閉じ込めることにより、敗戦は何かの解放ではなく、再び荒地の世界に鮎川は歩き始めたと言える、と同時に彼の戦後は終わったのである。「永遠に死んだふりをしているのですね」と記して、目前の荒地の世界に死者となっている姉の覚醒、それは叶わぬ思いのまま生き続けることで、敢えて言えば絶望と向き合ったのである。 こうして鮎川は早々と戦後に決着をつけてしまったのである。

 

 

 

 

 

  姉さんの死の行方。

 

 

 

 鮎川にとって心を許すことが出来た唯一のひとは「姉さん」だった。更に言えば、その純潔なままに死んだ「姉さん」に、彼は自己の精神の純粋性を仮託し戦後の「荒地」の世界を構築したのである。彼女の存在に、鮎川は生きる希望と同時に絶望の意味を考えようした。これにより戦後という時代に詩を書く意味を自問し、同時に詩人として生きることに早々と決着を付けた。

 『あなたの死を越えて』の初稿『姉さんごめんよ』(純粋詩十五号)が書かれた同じ昭和二十二年に『アメリカ』(純粋詩十七号)を発表している。飯島耕一の詩集『アメリカ』(思潮社平成十六年刊)の中の作品『アメリカ』には、鮎川の作品の一部が引用されているが、この間に半世紀以上の年月が横たわっている。

 飯島は昭和五年、鮎川は大正九年生まれで、十歳程の年齢差がある。鮎川の作品を当然読んでの引用だが、最初から念頭において書き始めたのかどうかは知らない。どちらが優れて「アメリカ」に肉薄をして表現しているか、との問題設定はほとんど意味がない。そもそも鮎川は飯島のようにアメリカを描こうとしたかどうか疑わしいからである。

 

 僕はひとり残される

 聴かせてくれ 目撃者は誰なのだ!

 いまは自我をみつめ微かなわらいを憶いだす

 影は一つの世界に 肉体に変ってゆく

 小さな灯りを消してはならない

 絵画は燃えるような赤でなければならぬ

 音楽はたえまなく狂気を弾奏しなければならぬ

 「アメリカ……」

 僕は突如白熱する

 僕はせきこみ調子づく

 僕は眼をかがやかし濤のように喋べりかける

 だがあたりに誰もいない

 空虚な額縁のなかで白い雨が乾いている

 無言で蓄音機のレコードが廻転する

 「アメリカ……」と壁がこたえている

 ……                      『アメリカ』より

 

 この作品は戦争で死んだMに対して、戦後の日本の世界の姿を語りかける内容になっているのだが、『姉さんごめんね』の姉に対しての語りかけにどこか似ている。けれど決定的に違うのは、『アメリカ』では言葉が宇宙空間に飛び出し、浮遊のような状態に置かれていることにある。

 「私はこの作品でかなり烈しく剽竊をやった」と書かれているのは、詩の作品『アメリカ』と同時に発表された『「アメリカ」覚書』においてである。それは詩人や小説家の作品の一部の剽窃なのだが、それらの言葉は、鮎川とMとの間では説明せずとも当然了解可能なものであったに違いない。だが作品の世界に採録されたそれらの言葉は、もはや濃密な意味を失い漂流しているのである。

 ここに書き付けられた言葉「アメリカ」は当然のことだが、「荒地」のイメージの世界の中にある。飯島の場合は作品のなかで、「肥り過ぎた腔腸動物」とか「寒天質の海に漂う腐敗物質」という言葉で、「アメリカ」を意味付けて示しているのだが、鮎川にはそれがない。

 「アメリカ」という言葉が突如前触れもなく登場させているのだが、それは叫びにも似ている。祖国を持たないと言った鮎川にとっては、倒すべき敵国であった「アメリカ」でもなく、当然のことだが解放者としての「アメリカ」でもなかった。あくまでも「荒地」の世界の中に姿を現す何かの意味、それも「姉さん」とともにある世界の中に蠢く言葉としての「アメリカ」であったに違いない。もっとも未だ言葉にならない「アメリカ」であり、遂には詩の世界に姿として現すことのなかった「アメリカ」だった。

鮎川は『「アメリカ」覚書』では、詩に対する明確な態度を驚くべき冷静さで、次ぎのように書き終えている。

 

 私はやりきれない気持ちでこの作品を放棄する。或いは放棄するところまで行っていないにも拘わらず悪い眩暈のうちで中断する。言葉にしがみついている記憶の固執と、断片の死臭と言語の保存用アルコールの厭な臭気とを感じながら……。私の「アメリカ」がそのような暗い世界から生まれたとしても、それは私だけの責任ではない。

 

 この苛立たしい思いを向けているのは、それは明らかに言葉に対してであった。当然それは「アメリカ」という言葉に対してであり、更にはその言葉に群がる言葉にであった。その意味では『アメリカ』は言葉を真摯に問いつめたのだが、優れて見事な大失敗作だったと言える。

 鮎川の絶筆となる文章は、「貿易摩擦の損得勘定」(「エコノミスト」昭和六十一年十月二十八日)で、「日米貿易摩擦の解消は簡単である。日本は売らねばよいし、米国は買わなければよい」と書いている。祖国を持たない鮎川ならではの突き放した視点を貫いて終えているのである.

 『アメリカ』を書く中で、鮎川は一瞬「アメリカ」を見たのかもしれない。敢えて言えば、『アメリカ』が現在の私達に示す意味は、祖国を持たない 鮎川だったからこそ、偉大な失敗作を書き得たのだということである。

飯島は「アメリカ」を果たして発見したのであろうか。更に言えば、私達は「アメリカ」を発見することなどもはや出来ない地点にまで押しやられている、鮎川にそのように言われているような気がするのである。