映画評村嶋正浩

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紙風船エロスは甘き香り蛇にピアスめがねメゾン・ド・ヒミコ■空中庭園トニー滝谷リンダ リンダ リンダ空気人形寝ずの番

 

 

家庭に男は必要ですか、家族って好きですか


本田利晃監督 空中庭園 みな生まれてくるときは、泣きながら血まみれになって出てくる


 

 板尾創路はそもそも家庭には不向きな役者である。自分の身体に巣食う何かをもてあましながら、意思としての積極的な悪意はないものの、家族からはみ出してしまい、結果として壊してしまう男のイメージが私にはある。そのイメージの形成は、関西のお笑い界の中心人物ダウンタウンの仲間の中にあって特異な存在、人懐っこい振る舞いを見せながらも、誰も寄せ付けない雰囲気の存在によるものが多い。

 その存在を示す演技が出来る役者として、私は魅力を感じているのだが、板尾創路が父親を演じる家族を描いた映画である。

 板尾創路と小泉今日子は夫婦で、料理がうまくて家族思いの明るい母と、決して威張る事もなく優しくもの分かりのいい父、生意気盛りだがまじめな高校生の娘と息子がいる家族である。

 大楠道代は小泉の母親であるが、娘とは対照的に人の心を逆撫でし身勝手で行動をとる女を演じている。更には灰汁の強くふてぶてしいが魅力ある女の演技を永作博美とソニンが見せている。それだけでただならぬ雰囲気の作品であることが想像される。

 みな生まれてくるときは、泣きながら血まみれになって出てくる、という台詞が何度か登場する。その意味ではみな平等にこの世に生を得るのだが、その瞬間否応なく家族の一員としての絆の中に置かれる。

 家族って好きですか、と問いかけるこの映画の舞台は、観覧車が見える街の瀟洒な高層のマンションの一室で、日の当たるテラスには手入れの行き届いた四季の花が咲き乱れている。明るい日差しが差し込むテーブルを囲む四脚の椅子に集う家族は、何でも話して合って秘密を持たないことをルールで暮らしている。秘密は強い絆で結ばれている家族にとっては、存在を脅かす不幸の病巣である。

 家族を理想的な形で想像し追い求めるひとには必見の作品である。だが劇薬でもある。家族など決して作らないで暮そうと決意するか、それでも作る道をあえて進むかは、見た人の見識と度量にかかっている。

 生意気な娘は、家族が食卓を囲んだ団欒の中で、私を仕込んだ場所は何処なの、と明るく平然と聞く。その場所は野猿というラブホテルで、どうしてそこへ行くことになったかの由来も含めて、当然のように明るく両親から語られる。秘密を持たないで何でも話すことが家族の絆を保障している、それが小泉今日子の描く家庭のルールだからである。

 同じ事を最後の場面で小泉今日子は母親の大楠道代に聞くのだが……、この答えの落差にこの作品の意義と意味が示されている。そしてそれを解き明かすのが、大楠道代の重要な役回りである。

 秘密は墓場までもっていくという生き方を示す演技力こそが、この作品の大きな流れの道筋を付けて、その方向と速さを示していく。

 身勝手で、自分の事しか考えない母親像が随所に登場するのだが、それはあくまでも娘の小泉今日子の見た母親に対する思い込みが反映されていることが、最後には分かるようになっている。

 ラブホテルの「野猿」が私を仕込んだ場所だと知らされると、娘はその場所を探し出し、級友の男友達に一緒に見学に行ってくれるようにと誘い出かける。興味を抱いた息子もまた家庭教師のソニンと出かけ、更に父親の板尾創路は愛人の永作博美と利用する場所として登場する。

 子供たちは学校をサボっているらしく、小泉今日子以外は盛り沢山の秘密をもつ家族を、それを早いテンポで次々と示されていく。

 ラブホテル「野猿」と瀟洒なマンション、そして大楠が入院している病院の三箇所の部屋で、言わば、性と生と死の三角のトライアングルで起きる世界が示される。家庭はひとの再生産する直接の現場であり、俯瞰して個別に見れば、世代が入れ替わりながら、それぞれの家族が生まれ死んでいく、その日々の暮らしの場所である。

 小泉今日子は家庭の暖かさに恵まれずに育ったとの思いから、少女の頃から理想の家族を目指して着々と計画し、やっと辿りついた家族の暮らしの現実である。自分の身体の生理の管理さえもして、それに相応しい男を獲得して、自分の子供時代の不幸の徹を踏まないように、嘘のない家庭をつくるべく子育てに邁進する。

 大楠道代が主人公とも言うべき役回りであり、不幸の原因の張本人である小泉今日子の母なのである。彼女が抱え込んだ不幸の実態が明らかにされながら、小泉の家庭の幸福の実態が明らかにされていく。

不幸の原因であると思い込んでいる実態は、所詮些細なことである。

家族間で秘密を作らず何でも話すというルールで幸せを再生しようとする目論見、けれど、小泉今日子はますます理想の家族から引き裂かれていく。

 小泉今日子にとって不幸の原因であった大楠道代が、理想への道を次々と壊していくのである。それはこの二人の母親と娘との家庭を持つ意味の戦いであり、同時に次世代の母親の小泉今日子と娘の鈴木杏との戦いなのである。

 つまり、家庭を作る現場においては、今更言うまでもないが、男は右往左往する部外者にすぎないのである、ということである。

 「空気人形」が男の欲望の理想的な在り方とは何かを追及した作品であるとすると、「空中庭園」は女の欲望の原資である家族とは何かを描いた作品である、と言っても過言ではない。家庭で男は必要ですか、家族って好きですか、そう問いかける映画である。

 

空中庭園 2005年 製作 『空中庭園』製作委員会 監督・脚本 豊田利晃 原作 角田光代『空中庭園』

出演  小泉今日子 板尾創路 鈴木杏 広田雅祐 ソニン 永作博美 大楠道代


 

 

 

 

 

 

小沢英子の本当の名前は宮沢りえだった


市川準監督 トニー滝谷 一枚の衣服のトニー滝谷と、夥しい衣服を身にまとう宮沢りえが、お互いの孤独の意味を照らし合うように存在している


 

 トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった、こうして村上春樹の小説「トニー滝谷」は始まっているが、映画も同じである。

父の省三郎は少しは知られたジャズ・トロンボーン吹きで、自由気ままな日本人だった。トニーが生まれて三日後に母は死んで、すぐに焼かれてしまった。母のからだの手触りやそのぬくもりも知らず、自分の身体を孤独なうちに育ててしまったのである。

 多感な青年に成長したトニー滝谷の前に現れたのは、小沼英子という宮沢りえであった。この映画の見るポイントは、二組の登場人物、トニー滝谷(息子)と滝谷省三郎(父)、そして小沼英子(トニーの妻)と斉藤久子(トニーの秘書)の存在のあり方にある。イッセー尾形と宮沢りえがそれぞれの二役をやっているが、この二人の女性はあくまでも宮沢りえとして登場し、相手役のイッセー尾形はあくまでも男Aとしてのトニー滝谷である。これはイッセー尾形という役者が、様々な人々の振る舞いを凝縮して見せる演技を、得意としているからに他ならない。

 この二役の登場人物は奇妙な言い方だが、共に肉体を欠いた身体として描かれている。一枚の衣服のトニー滝谷と、夥しい衣服を身にまとう宮沢りえが、お互いの孤独の意味を照らし合うように存在している。

 新しい服を次々と買い求めて歩き回る宮沢りえの足が、画面いっぱいに行き交うのたが、見せるのは引き締まった足の見事なデザインの靴だけで、身にまとう高級ブランドの服は、最後まで映像には出てこない。

 夥しい衣服が納められている部屋も、カメラは部屋の奥に固定されて写しているだけで、空間に占める単なる量としてのみ示されている。

 少し買うのを控えたらとのトニーの忠告にも関わらず、買い求める衝動に身体が突き動かされていく。しかしそれも突然に交通事故死によって終りを告げ、部屋には溢れるまでもの服が残されてしまう。

宮沢りえの身体を見せる演技は見事である。それも高級な衣服を着て見せる場面はなく、貧しい身体のみを示しているのである。結婚生活の中で、手触りとしての肉体を見せず、更に言えば触れさせることのない身体を見せ続ける。妻が新しい服を買い続けることで、宮沢りえの孤独を、同時に男Aの孤独を癒していくのだが、終りを告げるのである。

 写真集「サンタフェ」で彼女が見せたのは、はだかの宮沢りえという衣服だったのではないかと思う。

 妻が死んだ後に残された大量の高価な衣服には、当然のことだが、包むべき妻の肉体はもはや存在しない。敢えて言えば、そもそも最初から肉体の抜け殻として買い求められ収集されているのである。

 トニー滝谷の孤独は、同じことだが妻の宮沢りえの孤独は、この衣服部屋の量と等価である。もしかしたら村上春樹のすべての小説の登場人物の孤独は、そのようなものではなかったかと、いまふと思う。

宮沢りえは次々と高級な洋服を目にしては買い求めては身にまとい、脱ぎ捨てては買い求め続けることで、夥しい身体である衣服を部屋に 満たしていくのだが、同時にそれは肉体を失っていく過程である。

トニー滝谷はそのような妻と暮らしを共にする日々にあって、新しい衣服を買わずにいられない妻を容認し見守ることで、新たな孤独に導かれて母なるものの、同時に妻の肉体への飢えを満たそうとする。

 妻の死後再び彼の前にもうひとりの宮沢りえが登場する。二人とも画面に登場するシーンは、坂道をひたすら登ってくる女の顔がまず現れるという映像である。再婚する相手ではなく、仕事上の助手として求人広告に応じた女である。彼は雇う条件として、妻の身体とおなじサイズであること、妻の残した衣服を職場で身に着けることを要請する。

 この奇妙で不気味な条件を警戒しつつ、契約内容の良さに受け入れてしまう。衣服の溢れる部屋に通されて、彼女はその衣服を身体に通しながら嗚咽し溢れる涙を見せるのは、この映画の重要な場面である。

 身を付けていた女の肉体をこの衣装に感じていたならば、決して涙などしなかったはずである。更に言えば、手当ての条件が良かったとは言え、けっして身に付けて仕事をすることなどなかったはずである。

 母に抱かれた記憶がないトニー滝谷は、妻の宮沢りえを抱くことを知らず、出来なかった違いない。夥しい衣服を次々とまとうことで生き続けた妻の身体も触れることはなかった、とも言えるであろう。

とは言え、映画「トニー滝谷」は基本的に宮沢りえの身体を見て楽しむ作品である。トニー滝谷の孤独を薬味にして、二人の宮沢りえの身体を見て楽しむ作品であり、そのように描かれている。

 トニー滝谷は思い直して助手の仕事の契約破棄を告げ、貸し与えた一週間分の衣服を返さなくてもいいことも告げる。そして、残された衣服すべてを処分して、死んだ父が残した夥しいレコードも処分する。

 トニー滝谷は今度こそ本当にひとりぼっちになつた、小説はこのように書かれて物語は閉じる。

だが映画では、トニー滝谷は再び思いなおして、契約破棄を告げた宮沢りえに電話をする。相手の部屋の電話が鳴り続けて、受話器を取る寸前にトニー滝谷は、電話を切る場面で終りを告げる。

 トニー滝谷にひとりぼっちになったことを、市川準は覚悟の再確認させたのである。ところで、ペ・ドゥナは空気人形ではなくて、人間になろうとして死に、宮沢りえは人間であり続けようとして死んだ。実は共に殺されたのだが、その下手人は「あなた」ということかもしれない。

 

トニー滝谷 2004年 製作 プロダクション ワィルコ 監督 市川準 脚本 市川準 原作 村上春樹『トニー滝谷』

出演  イッセー尾形 宮沢りえ 西島秀俊(語り手)


 

 

日本の女子高校生 ペ・ドゥナの青春


山下敦弘監督 リンダ リンダ リンダ クソッタレの世界の中のクズ共の一人


 

 再びペ・ドゥナの登場である。山下敦弘監督の映画『リンダ リンダ リンダ』では人間のペ・ドゥナであり、それも日本の高校生として青春真っ盛りの、悩み多きペ・ドゥナを見ることが出来る。ここでは人間の血の通った大きく開かれた眼の力が、言葉以上に言葉を語りかけてくる。

 この映画は2005年に作成されているので、時間の流れから言えば、十代の女子高校生である人間から、ビニール製空気人形のペ・ドゥナを見ることになる。だが私は懐かしい思い出のように、しばらく前までは人間であったペ・ドゥナを遡って見たのである。

 山下敦弘監督の「松ケ根乱射事件」では、人間の情けなく無為な日々を描いていている。特定の地域ではなく、何処にいても表通りを外れれば辿り着く場所で、それも見覚えのある生活の日々があり、社会的な絆から無縁な暮らしの時間が流れている。その時間の日々を暖かかい心で一定の距離を置いて描いている。

 ところでこの「リンダリンダリンダ」も基本的にはこの視線に貫かれている。最初の場面では、文化祭の記録映画を作っている頼りない撮影現場であり、背後の校舎に高く掲げられた文化祭の言葉「世界の舞台で自分を叫ぶ」が見える。このテーマにもかかわらず、彼らが手触りのない学校生活にいることが撮影風景から示されている。映画の中の時間も高らかな宣言とは無関係に物語を支配し進んでいく。

 この物語の発端は、文化祭を目指して練習を重ねてきたのだが、バンドの一人が指を怪我してバンドが組めず、演奏出来なくなったことにある。演奏日まで三日しかなく、思い余って、目の前を通り過ぎた者にボーカルを頼むという方法を思い付き、残された三人は待ち構える。この安易な、一見乱暴に見える方法こそ、この作品の根幹をなしている。

 最初に現れたのは喧嘩別れした友人で、やってもいいが「ブルーハーツ」のコピーでは嫌だ、そんなのやっても意味ない、と言われてしまう。

 それじゃもういい、香椎由宇は決然と断るのだが、この断固たる意思がこの映画の重要なポイントで、「ブルーハーツ」のコピーバンドに集まった四人の存在の意味が語られているのだ。

 次に現れたのが韓国からの留学生のペ・ドゥナだった。不確かな日本語の理解力の為に、思わず一緒にやることを了解したのである。だが彼女は文化祭で「日韓文化交流」の展示会の部屋を持っていた。

 これだけの条件が揃えば、物語の展開は必然的に日韓の交流、彼女たちのバンドを支える学校、地域社会の理解ある人々の援助という路線になるはずだが、期待は心地よく裏切られる。勿論これは青春を意義あるものとして位置づける人にとって、という意味であるが。

 男の子を好きになり、告白したりされたり、告白出来ないままに終わったりする青春の出来事を隠し味にして、最終的には四人のバンド演奏は成功裏に終わる。つまり観客は感動的な終末を見て、満足して席を立つことが出来る仕組みとなっている。

 ベース、ドラム、ギター、ボーカルの四人が演奏してシャウトするブルーハーツの曲「リンダリンダ」は、青春という季節の高揚する気分の仕掛けとして示されている。この映画はブルーハーツと共にあり、観客に対して青春という過剰な思い入れをサービスしてくれる。

 この選曲も偶然の産物として描かれていて、彼女たちはその曲との出会いの意味を、意識して理解している訳ではない。青春とは振り返ることによる意味付けでしかないと思うのだが、バンドを組む当事者の四人は当然青春の意味を理解する場にはいない。この曲を選択した意味を理解していないことが、重要な意味としてある。

 「リンダリンダ」とたまたま巡り合った、ただそれだけのことなのである。ペ・ドゥナがこの曲を初めて聞き涙するのを見て感動する他の三人の場面は、この曲との偶然の巡り合いを、啓示のような道筋を与えたことで、見逃すことの出来ない重要な部分である。

 繰り返し歌われる「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真には写らない美しさかあるから」(「リンダリンダ」)も、演奏会で最後に歌われる「終わらない歌を歌おう、クソッタレの世界の為に」(「終わらない歌」)も、彼女たちの存在のメッセージである。ただそれだけのことである。

 山下敦弘監督のやさしくも冷ややかな視線にさらされて描かれているに過ぎない。韓国留学生ペ・ドゥナは文化交流の展示よりも、ブルーハーツのコピーバンドの演奏に時間を割いて文化祭は終わる。

 青春とは徹夜して何かをすることで、愚かしい、無益で無意味なことで、ただ思い出の記憶としての存在に過ぎないのかもしれない。青春の意義なんて大人の誰にも言わせない、との宣言なのかもしれない。

 この作品は、青春バンザイという申し合わせの賛歌ではない。演奏会は自分の思いを十分に叶えられたとして描かれているものの、最後に歌われたように「クソッタレの世界の中のクズ共」の一人であるという意味を貫いてこの映画は終わっている。四人組みのバンドの彼女たちは熱く三日間を生きた。ただそれだけのことを描いた作品である。

 ぺ・ドゥナの存在はこのグループの中で異質な存在となっている。けれどそれは韓国の留学生という存在からくるのではなく、ひとりの女子高校生としての異質な、他の三人もそれぞれにおいてそうであるように、ばらばらな人間関係として示されている。そこには偉大な夢や正義というものが成り立たない世界が示されている。

 学校や地域社会が支える青春学園ドラマの世界から、もはや別の社会に来てしまったのである。

 印象的なシーンがいくつかある。日韓文化交流の展示室で、客もいないまま、友達のいないペ・ドゥナと少女が漫画を読む場面である。

更には、寝坊してロックフェスティバルの演奏時間に間に合わなくなり、到着までの場つなぎの為に、観客の疎らな講堂で演じられるギターや歌は、無意味で冷ややかさに満ちた場所として示されている。

 この場面があってこそ、雨でびしょ濡れになって遅れて辿り着いた四人の演奏は、輝くものとして彩られている。観客は両手を振り上げて飛び跳ね「リンダリンダリンダ」とシャウトする。それは山下監督の悪意ある心温かいサービスなのかもしれない。勿論これは、この映画を見る観客と四人の女子高校生に対してという意味である。

 誰もいない夜の講堂でバンドの一人一人を紹介するシーンでは、人影がまったく消えた中で、生き生きとした表情を示す人間ぺ・ドゥナがいる。

 最後の朝に徹夜して疲れて顔を洗う洗面所で、ぺ・ドゥナと香椎由宇がお互いにバンドを組めたことを感謝しあう場面で、背後にトイレットペーパーが山積みになっているシーンがある。

 その他様々な場面でものが雑然と存在している。文化祭という場で、人や物が溢れているものの、それぞれがばらばらに置かれているのを、山下敦弘監督は示している。言わば、その寂しい個々のものたちが、「リンダリンダリンダ」と叫んでいるのである。

 それにしても、ぺ・ドゥナの日本語の発音、特に歌う時の発音の完璧さに驚くばかりである。耳で聞いた言葉の音を、そのまま完璧に再現できる優れた能力がある、とのことである。

 

リンダ リンダ リンダ 2005年 製作・定井勇二 大島満 高野健一 監督・山下敦弘 脚本・向井康介 宮下和雅子 山下敦弘

出演 ペ・ドゥナ 前田亜季 香椎由宇 関根史織 丸本凛子 三村恭代 湯川潮音 今村繭 山崎優子 松山ケンイチ


 

 

 

 

ペ・ドゥナを抱くということ


是枝裕和監督 空気人形 ええ気持って、あなたにとって何なの?


 

 生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているら しい 花も めしべとおしべが揃っているだけでは 不充分で 虫 や風が訪れて めしべとおしべを仲立ちする。

 

 これは吉野弘の詩「生命は」の冒頭の部分であり、この映画のテーマでもある。

 是枝裕和監督の描く『空気人形』は、これまでの「誰も知らない」「歩いても歩いても」の持っている世界と同様に、時代の空気とその中で人々が見せる生活の色彩が、いい雰囲気を醸し出している。それは是枝裕和の世の中に対しての距離の取り方が、付かず離れずの冷酷さと優しさに溢れていて、心地よい後味を示してくれる。

 「空気人形」とは「抱き人形」のことで、「ラブドール」とも言い、代用女性人形、男性の自慰用の人形である。残念ながら、幸いにしてと言うべきなのか、使ったことがない。手に触れて見たこともない。安価なビニール製のものから、人肌の温かさがあり声を出す高価なものまであるという。因みに、男の買ったのは5980円の安価な品物である。

 空気人形が登場する最初の場面は、テーブルを挟んで男と空気人形が椅子に座る夕食の風景である。空気人形はおかっぱ頭でメイド服を着せられ、男は無表情な人形に盛んに語りかけながら食事をしている。仲睦まじい若い夫婦の食卓の風景である。

 男は関西のお笑いタレントの板尾創路が演じている。私の好きな俳優の一人で、狂気を秘めた普通の人、われわれの誰しもなり得る人物であり、普通ではない普通の人を演じられる数少ない男である。

 豊田利晃監督の『空中庭園』でも、板尾創路は小泉今日子との夫婦役で、家庭の崩壊を描く作品に登場している。彼の発する関西弁はさらっとしていて粘っこく、異常と正常の混じった雰囲気を見事に醸し出す。

 男はファミレスで働くまじめで目立たない市民の一人である。電車の窓に顔を寄せて勤めから帰る表情は、私たちのものである。帰りにスーパーに寄って帰宅するのも、ありふれた日常のひとこまである。

家で待っているのはメイド服の人形であり、その為にいそいそと真直ぐ家に帰り、人形と一緒に食事をし、ベッドで夜を一緒に過ごす生活を送っている。ささやかながら充実した生活が、男の唯一の生きがいなのである。その愛の巣は大都会の中心にありながら、忘れ去られたような古びたアパートの一室である。

 空気人形の印象的な場面は三つある。最初は5980円の安価なビニールの人形として、所有者の男と食卓を囲む場面で、ここでは人形でしかない。次は人形と人間の狭間にある人形で、破れて空気が抜けたために、好意を寄せる男に息を吹き込んでもらう場面である。最後はペ・ドゥナの生々しい姿態で朝のゴミ捨場に横たわる場面で、不要となった人形でありながら、人間が捨てられているように示されている。

 抱いているのは人形である、この意味するものを見せつけられる場面がある。抱いて愛したあと、使用したゴムの管を人形から取り外して、風呂場で洗うのである。いったいこの男は何をしているのか、快楽の果てに放出したものを水で洗い流しているのである。

 人形はある日、人間の心を持ち始め、人間と同じように街の中を歩き始め、人と触れ合い、人を好きになることを覚える。それは同時に人を憎み嘘をつくことも覚えるという逆説に生きる。

 一方的に抱かれる人形から、誰かを好きになり積極的にひとを選択し、抱かれるのではなく積極的に抱く方へと踏み出していくのである。

 所有者である男は戸惑いうろたえて、人形に元の姿に戻ってくれと関西弁で懇願する。人間の女ではなくて、意思を持たない人形であることで、自分の思いの全部をそこに詰め込ませることが出来たのである。

 二つの衝撃的な、だが静かな音が差し込まれている。それは男が人形を抱く場面での、肌と肌の触れ合い擦れあうギシギシという音である。もう一つは破れて萎んでしまった人形が、心を寄せている男に息を吹き込んでもらう音、人形が人間に変貌してゆく快楽の音である。

板尾の人間であって人間でない表情と、ペ・ドゥナの人形であって人形ではない表情が、時間の経過の中で推移していく。抱くとは何か、抱かれるとは何か、などと大仰な詰問ではなくて、ええ気持って、あなたにとって何なのと問いただされている。

 男は人形と抱くことが、ええ気持だった。人の心を持たない人形との日々の生活、更に夜の生活が心地よかったのである。人間になったペ・ドゥナは死んで、不要になったゴミとして捨てられるという逆説は、都市生活の本質的な暮らしの部分を示している。

 人間になることの意味は、年をとりやがて死ぬという選択である、空気人形はそのように思う。空気ポンプを捨てること、誰かに空気を入れられて生きることを拒否する選択であり、それが人間として生きる意味であった。しかし女は不本意に死んでしまった。

 人間としてなのか、人形としてとしてなのか、いずれにしても、気持のいい事ってなんですか。

 死ぬってどういうことですか。家族ってなんですか。つまり、ひとを抱くってどういうことですか、という問いに尽きるのかもしれない。

 

空気人形 製作年 2009年/製作 川城和美(バンダイビジュアル株式会社代表取締役社長)/監督 是枝裕和/脚本是枝裕和/原作 業田良家著「ゴーダ哲学堂 空気人形」小学館/出演 ペ・ドゥナ 板尾創路 ARATA オダギリ・ジョー 余貴美子 岩松了 富司純子 高橋昌也


 

 

映画を見るということ


マキノ雅彦監督 寝ずの番 とりとめも無くハチャメチャなドンちゃん騒ぎの一部始終


 

 『寝ずの番』は不思議な映画だ。俳優が物語の誰かを演じているのを楽しみとして見る映画ではない。

 原作は中島らもの「寝ずの番」であり、落語の「らくだ」「地獄八景」を題材にしている。

 あらすじはあって無きに等しく、上方落語の大御所橋鶴師匠が死ぬ前後の様子を描いたもので、とりとめも無くハチャメチャなドンちゃん騒ぎの一部始終を描いている。つまり臨終の時から通夜に至る時間の大騒ぎを映画化したものである。その様子は落語「らくだ」にちかいものがある。

 主役の大御所が長門裕之で、仲が悪いと喧伝されている監督が津川雅彦で、マキノ雅彦の名前でクレジットされた第一回目の作品である。

 そもそも俳優は物語の人物を演じて、つまり役に成り切ることで見事に生きて、観客からお代を頂戴する。観客はその俳優の物語の人物を味わいつつ、惚れ直したの、役不足だの、配役ミスだのと言い合うのは、映画の後のお茶の最大の楽しみである。

 ところがこの映画では、それぞれの俳優がそれぞれの俳優の素のままを演じて見せている。つまり、あくまでも喧伝されている市民としての俳優の顔を演じて見せているのである。映画に登場するのは落語家の弟子ではなく、中井貴一そのひとである。気の弱い噺家の中井貴一ってああいう人間なんだ、そうだと思っていたなどと思いつつ鑑賞する。

 その妻の木村佳乃は木村佳乃のままで役柄としての木村佳乃を、師匠の若い妻志津子の富司純子、私にとっては藤純子も同様に演じているのである。当然のこと上方落語会の大御所の長門裕之も、一番弟子の笹野隆も、師匠の長男の岸辺一徳も、勿論芸妓時代に志津子に入れあげて通いつめていた堺正章も忘れてはならない。

 惜しむらくは、ここに津川雅彦が登場しないことである。しかしかれは監督であり、主役は長門浩之という関係である。観客は二人は仲が悪いだの、実際は違うのだの、長門は女癖が悪いのだのと様々な喧伝されている知識を仕入れて見ている。

 厳粛な通夜に乱痴気騒ぎを、それも名だたる俳優がやっているのを観客は見ているのである。落語家一門という役柄の人物としてではなくて、個々の俳優そのものを見せられて、鑑賞しているのである。

 エピソードの一つは、大御所が臨終に「そそが見たい」と途切れ途切れにささやく場面がある。そそとは女性器のことである。女を泣かせた大御所らしいと思い、最後の願いをかなえてやろうと一門の者は相談して、噺家の妻の木村佳乃に強引に説き伏せて頼み込む。仕方なく、寝ている長門裕之に跨り、スカートをまくって見せるのである。ところがなんと長門裕之の口から、おれは「外が見たい」と言ったのだと言う。「そそ」と「外」を聞き間違えたというのだ。

 清純と言われている木村佳乃がスカートをめくるなんて、それも「おそそ」を見せるなんて、と観客が思えばこのシーンは成功なのである。

 観客は役の上の人物ではなく、生身の俳優の喧伝された知識で読み取っているのである。それがこの映画のマキノ雅彦こと津川雅彦の目論見に見える。

 緋牡丹博徒の藤純子も、貞節な歌舞伎俳優の妻である富司純子も一緒になって卑猥な唄を大声で歌うなんて美味しすぎるなどと、観客が思わず感嘆して叫ぶと、この映画の目論見は成功したことになる。猥雑な歌とは、「ひとつでたホイノヨサホイノホイ ひとり娘とやる時にゃ 親の承諾 得にゃならぬ」であるが、通夜の晩に三味線掻き鳴らして唄うのである。

 つまりこの映画の目論見は、通夜に乱痴気騒ぎをする俳優がいて、密かに観客を仲間入りさせ、至福の時間を過ごさせることにある。落語家一門の設定は観客の頭には無く、俳優と一緒に乱痴気騒に向って一挙に突き進んで行く単なる仕掛けに過ぎない。そこにこの映画の意味が成立している。

 世間では許されない通夜の乱痴気騒ぎである、一度はやってみたい。小気味良すぎる、美味しすぎる。登場人物の俳優たちは、決して手の届かないスターではなく、浅ましいほどばかばかしいことを、形振り構わずしてくれるのがおいしいのである。役でやっているのではなく、俳優本人がやっている、と思わせる演出が監督の技なのである。それは役者に対しての善意であり、観客に対しての優しい悪意である。

 現在の観客は俳優のスキャンダルを許さない。正義や道徳を声高に言って弾劾する。特に男女の中のスキャンダルに厳しいのである。そのような観客に対するマキノ雅彦監督の心からのファンサービスなのかもしれない。

 映画は楽しければいい、美味しければそれでいいとする、立派な心がけの映画なのだ。昨今の流行とは異なって、その志の低さにこそ、高い娯楽を生み出したに違いないと思わせる映画である。

 出演者の喧伝された情報を知識として、私たちはそれぞれの役作りの中での俳優を見ている。映画『寝ずの番』は決して例外の特別な映画ではない。

 

寝ずの番 製作年 2006年/製作 株式会社光和インターナショナル/監督 マキノ雅彦(津川雅彦)/脚本 大森寿美男/原作 中島らも「寝ずの番」講談社文庫・角川文庫/出演 長門裕之 中井貴一 木村佳乃 堺正章 岸部一徳 富司純子 笹野高史 高岡早紀


photo:Sichi-Ri<照明器具> 写真は本文と関係ありません。