映画評村嶋正浩

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■裸の島■紙風船エロスは甘き香り蛇にピアスめがねメゾン・ド・ヒミコ■空中庭園トニー滝谷リンダ リンダ リンダ空気人形寝ずの番

 


監督 新藤兼人 裸の島 乙羽信子


 夫婦には会話が必要ですか

 

恐ろしい映画である。セリフが登場しない。家族には絶対必要と流布されている会話が基本的に欠けている。通常、登場人物は様々な思いを語り、観客はそれに感動して受け入れ、あるいは反発をしつつ彼らと供にひと時を生きる。「裸の島」の登場人物の家族がお互いに会話をしないのは、恐らく私たちが考えている家族の会話を必要としない暮らしをしているからである。

無声映画では登場人物は画面で何かを激しく語っているが、そのセリフを弁士が代わって語りかける。この作品はそもそも会話によって暮らしの中の家族関係を維持することに無関心な人々がいて、作品そのものは何かを語ろうとしないまま、むき出しの自然を示すのみである。

「裸の島」(1960年)は新藤兼人の作品で、撮影は瀬戸内海に浮かぶ周囲500メートルほどの無人島で行われ、電気もガスも水道もない不毛の島での家族の暮らしがあり、自然と闘うのではなく共生しがら生きていく家族四人の生活を描いている。家族構成は、中年の夫千太(殿山泰司)、妻トヨ(乙羽信子)と二人の息子の4人で、他には家族同様のアヒルとヤギがいて、生きものとしては唯一の裸の島の住人である。

ここで描かれているのは、人間の暮らしの営みもまた自然の一部であることだ。水のない島で暮らすために、毎日のように船で隣の島から水を運び、平地のない島なので、頂上まで続く段々畑に桶を天秤棒で担ぎ上げ、水をやるのが毎日の仕事である。とりわけ小柄な女のトヨには辛く過酷な仕事である。

周囲には豊かな自然があるにも拘らず、何を好き好んで過酷な暮らしをつづけているかと、私たちには見える。けれど私たちに見えないものを彼らは見て暮らしている。そこに別の現実の暮らしがある。

ここでの暮らしに言葉は必要ない。夫婦で船を操り隣の島から水を運び入れ、天まで届くかと思われる裸の山にある畑に水を運ぶ、その苦行とも見える行為の繰り返しの日々を送っている。これらの瀬戸内海の静かで豊かな海での船を漕ぐ場面、夫婦がお互いに櫓を操りながら滑るように水の上に舟を進ませる光景は、自然の海の豊かさを示している。

夫婦が暮らす島は不毛の地で、生きていくのに必要な水は隣の島から運ばなければならない。平地のない裸の山の頂上まで黙々と水を運ぶ徒労に見えるシーンが繰り返し描かれている。言わばこの過酷な暮らしの行為こそ、この映画の主役である。

水が出ない裸の島から逃げ出しもせず、日々の苦行のように見える天秤棒を担ぎ水桶を担ぎ上げる光景、同時にそれに対比される豊かな海の水面を滑る舟の光景に何度も息をのむ。

殿山泰司と乙羽信子は天秤棒に桶吊るして坂を登るシーンの為に、一週間を掛けて練習をしたとのことだが、違和感もなく見事である。天秤棒が静かに上下して水桶が運ばれていく場面は、観客にはらはらさせながら絶えず辛い緊張感を与えずにはおかない。この家族にとってそれが唯一の暮らしの中心となる行為なのだ。それこそが彼らにとって生きている実感のある暮らしの日々である。

この映画は基本的にセリフのない作品なので夫婦に会話もなく、林光の音楽がひたひたと時間を越えて、或いは時間を忘れさせて流れるのみである。夫婦には会話がないにも関わらず、人間もまた自然の生きものとして、自然の過酷だが豊かな会話の中にいるように見える。夫婦には会話が必要だと声高に言われるようになったのはいつ頃からなのか。

水のない裸の島から見る瀬戸内海の海はあまりにも美しい。波の音、船の櫓の音、風の音、水を撒く音、自然の音以外なにも聞こえてこない暮らしである。家族は生きる意味を直接何も語らない。むしろ何かを語る必要がないかのようにして生きている。

命と同様に貴重な水を溢してしまう場面が二つあり、いずれも妻のトヨがしてしまうのだが、まったく別の意味を持っている。ひとつは水を頂上へと運び上げる場面で、トヨがよろめいて桶を倒してしまうと、すぐに乾ききった土地が吸い取ってしまう。千太は近づき思いっきり妻のトヨの頬を殴りつけるが、声を上げて抵抗もしない。殴ることが理不尽にも見えるが、千太の見せる顔の苦しい表情が心を打つ。

もう一つは子供が病気になり、隣の島の医者が間に合わず死なしてしまう場面に続いて起こる。葬儀では同級生の子供たちが加わり、島の高台に黙々と裸の島の土を被せて埋葬し、再びもとの暮らしが始まる。再び水を畑の野菜にかけている途中で、突然桶をぶちまけ野菜をむしり取り、そのまま痩せた土地に打ち伏して号泣する。千太はトヨを殴りつけることなく、悲しい目で見詰めるだけである。

アルベール・カミユの「シーシュポスの神話」では、神々の怒りを買い、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けたのだが、この裸の島の住民はなんの罪も犯していない。神々の怒りを買ったこともなく、むしろ彼らは自然に宿る神々の摂理に従って生きているに過ぎない。

家族はこの不毛な土地から逃れようとはしない。日々通う隣の島には水があることは当然知っているが、不毛の裸の島に留まり続ける。何故この島に留まり苦行に近い暮らしをつづけているのか何も語らない。

 

世界には過酷な自然の中に暮らしている人々がいるが、生きる意味とは、良くも悪くも暮らしを育む土地にあってによる。土地とともに暮らすことを放棄してしまった私たちは、生きる不安に襲われながら暮らすことを選択してきた。彼らの生きる不安は不毛な土地に執着しているからのように見える。だが、逆に不安のあまり夥しい会話を強いられている私たちは、もはや彼らの暮らしの喜びを理解できない現場で日々過ごしているに過ぎない。恐ろしい映画である。


裸の島 1960年 監督・脚本 新藤兼人/音楽 林光/出演 乙羽信子 殿山泰司  田中伸二 堀本正紀


 

 

夫婦で紙風船を突き合ったことがありますか  


秋野翔一監督 紙風船


●予告編=映画「紙風船」公式サイトこちら


 

「紙風船」での女優緒川たまきの振る舞いが、実は素の日常の姿ではないかと見えてしまう作品で、彼女が好きな方には必見である。

 佐々木浩久監督の「ナチュラル・ウーマン(松浦理英子原作)」(1994年)の諸凪花世役で、恋人の村田容子とのベッドシーンで見せた意地悪く責め立てる妖艶な表情とは異なっている。

「紙風船」はオムニバス映画で、「あの星はいつ現はれるか」「命を弄ぶ男ふたり」「秘密の代償」「紙風船」の四つの小品で成り立っている。

 いずれも岸田國士の戯曲に基づいて映画化されており、特に興味をひいた「紙風船」は、大正15年に発表されたものであり、戯曲のセリフの多くが採用され、話の展開もほぼ同様に進んでいく。

 冒頭は、新婚一年目の緒川たまきが庭の洗濯物を取り込む場面で、仲村トオルが部屋で手持無沙汰でぼんやりと横になっている姿が映し出される。たまきは洗濯物を手にして部屋に戻り折り畳み始めると、トオルは居場所をなくしソファーに移動してテレビを見るが、すぐ飽きて新聞を読み始める。これは「たまき」と「トオル」の映画である。

 戯曲同様に、この映画は居間での出来事に終始していて、セリフの遣り取りの面白さに、戯曲の痕跡を十分に残している。

 たまきが風呂で雑誌を読む習慣があり、湿気で頁がくっついている。読み辛いとトオルが言うと、トイレで新聞を読むのよりはましよ、その新聞をテーブルに載せるのを止めてと、すかさず言葉が返ってくる。喧嘩に至らない言い合いが始まるが、言葉が続かず沈黙となり、休日の時間が無為に過ぎて行く。ただそれだけを描いた作品である。

 この作品の世界の象徴的なセリフはトオルが発していて、休日には一緒に出掛けたいたまきに対して、「おれたちは日曜日に何処かへ出かける為に夫婦になった訳じゃない」と言ってしまう。

 妻と出かけるのが煩わしいのだが、勝手に一人で出かけるのも気が引ける。家にいてもどのように振る舞っていいのか分からない。つまりどのような言葉を交わして過ごしていいのか、戸惑うばかりである。それがたまきにとっては妻に対しての気遣いがないように見える。

 同じセリフが大正15年の戯曲にも書かれているのに驚くのだが、二人が生きている時代の生活空間は当然異なっている。

 鎌倉に行ったつもりで、タクシーの運転手とお客、ホテルマンとお客と役割を演じるごっこ遊びをすが、二人は楽しそうに生き生きと言葉を交わす。それは、それぞれが他人であることによるものだ。

 妻は夫に海辺に誘い、戯曲では妻は海に入る。裸の妻の身体を前にして、黒髪に、胸に、眼に、唇に、初めて見たかのように興奮して、抱き寄せようとする。妻はやんわりと拒絶する。

 映画では、たまきは海に入ることなく、トオルに歩き疲れたから休もうと言われる。場面は夫婦の寝室に移動し、二人はベッドに腰掛け、トオルはたまきを思わず抱こうとするが、拒絶されたわけではないが、抱くことが出来ない。起き上がって、ごめん、と言う。たまきもまた、衣服の乱れを直しながら、こめん、と同じように言う。

 この「ごめん」のセリフが挿入されることにより、時代の差が鮮やかに示されている。戯曲が書かれた時代では、夫婦してこのセリフを発する社会的背景がない、つまり夫婦間での言葉の深刻さがないのだ。

 場面は続いて、このような俺との暮らしがお前は嫌にならないかと聞き、おれは、お前とこうしていることが、だんだんうれしくなくなってきた、と戯曲も映画も同じように夫から発せられる。更に続くのは、夫婦して日曜日が怖いというセリフである。

 夫婦には役割分担があり、妻は家を守るとする社会的な規範が強固に存在した時代が終わり、つまり夫婦に言葉が差し当たり必要でなかった時代が終わった現在、言葉がない夫婦がスケッチ風に描かれている。

 象徴的な場面は、「紙風船」の扱いにある。戯曲では、隣家の子供の紙風船が庭に飛び込んで来た場面で終わっている。つまり隣家との交流があるのだが、映画では現実に紙風船は存在しない。

 暇つぶしにするクロスワードパズルの答えの紙風船であり、それは二人の思いの中にのみ存在し、幻の紙風船を言葉の掛合いのようにして突き合う。豊かな表情と仕草でその虚構に遊ぶのである。

 紙風船は、どちらへ飛んでいくかわからず不安定で、強くたたいたところでうまく飛ぶわけではなく、優しくたたいた方がうまく飛ぶこともあり、破れやすそうだがそうそう破れることがなく、つきあっていないと落ちてしまい、自力では飛ぶ事ができず、時には萎み、時には膨らみ、空気を吹き込めば何度でもつくことができる。

 これは秋野翔一監督の発言なのだが、夫婦の豊かな言葉の遣り取りとしての「紙風船」の遊びは、もはや日常生活には存在しない。

 夫婦の男と女としての間に言葉は必要なのか。たまお言う、あなたは話をしたがらない。どんな話があるのか戸惑うトオルに、話は「する」ものであって、「ある」ものじゃないと苛立ちながら言う。

 夫は、男はと言うべきなのかもしれないが、それに応えることが出来ない。つまり話を「する」意味が理解できないからである。

 映画「ナチュラル・ウーマン」での恋人同士である女と女の間では、妻の言う「話をする」ことをしているように、私には見える。

 なお、緒川たまきは、カネコアツシ監督「乱歩地獄(蟲)」、西川美和監督「ユメ十夜(九夜)」にも出演しているが、何れも彼女の存在感を見せつける作品となっている。敢えて言えば、原節子同様に、緒川たまきは顔に存在感のある女優で、間近で見つめられたいと思わずにはいられない女である。いずれにしても、この作品は休日を一緒に過ごすのが怖いと思う夫婦の心あたたまる物語である。


紙風船 2011年 監督・脚本/秋野翔一 原作/岸田國士 出演/緒川たまき 仲村トオル


 

 


藤田敏八監督 エロスは甘き香り


 家族の作り方の基礎の基礎はエロスである

          

1970年の「エロスの香り」。一つの時代の終わり、家族を作ろうとする男女関係の基礎の基礎において、最後の「エロスの香り」の現場に踏み込んだ作品。

 

 『エロスは甘き香り』(1973年)は藤田敏八監督の作品で、桃井かおりの初々しい、それでいてふてぶてしい身体を画面いっぱいに見せてくれる。「妹」「赤ちょうちん」の秋吉久美子の健気な身体、「しなやかに、もっとしなやかに」の壊れそうな森下愛子の身体、藤田敏八の描いてみせる若い女の身体は、生きものとしてのものである。

 最近の映像の中の女性の身体は、社会的に管理された生きものとしてのそれでしかなく、桃井かおりの見せた身体はもはや見当たらない。

 男にとっと厄介ないきものとしての女であり、けっして押さえつけることの出来ない相手として、様々な場面で藤田敏八は示し続ける。 そしてその力ずくでも管理することの出来ない女という生きものを相手に、ひと番として生きることの困難さと危うさ、更に言えば喜びを、寄生する男の困惑した振る舞いに具体的に提示している。言わば、家族へと向かう原形の危うい結びつきを、心地よく時には見るものを逆撫ですることで示してくれる。

 この映画から既に40年近くの時間が経っていて、現在は人間関係としては過酷な、男と女にとってより困難な時代に突入したことを逆に教えてくれる作品でもある。

 前回の作品『蛇にピアス』を見れば、男と女という生きものの手がかりを失った時代に、突入しているのが分かる。ピアスをした男と女、ここでは生きものとしての身体ではなく、社会的に新たに管理された身体でしかない。『蛇にピアス』の少女ルイが全身を男の前でさらして見せたのは、藤田敏八の描く男女関係の破綻を源流としている。

 振り返って見ると、『エロスは甘き香り』は男と女の関係が、より別の社会的管理へと変貌する過度的な作品なのかもしれない。

 

 冒頭の場面では軍用機が大写しに飛ぶ姿が示され、基地の街であることが分かる。主要な舞台になる一軒の家、明らかに米軍ハウスと思われる家が続き、高級分譲住宅の立て看板の中を、P38の住宅番号の家に男がたどり着く。売れない自称カメラマンの浩一である。以前一度だけ会ったことのある柳沢悦子に会いに来た。生活に困ったからである。

 こうして物語が始まり、まもなくやって来た悦子の友達であるホステスの雪絵と、連れの男も売れない漫画家の昭との二組4人の生活が、この作品の中心にして進んで行く。この吹き溜まりの、自由でありながら閉塞感覚のなかで、女に依存してのその日暮しの生活が始まる。

 最初の場面で、浩一が留守の悦子の部屋に上がりこんでいると、悦子が帰ってくる。人の気配を感じて、「年男、年男なのね」と言う。この男は以前一緒に暮らしていたこともあり、この作品では何度か登場する。それもわずかなシーンなのだが、この時代を色濃く味付けしている。

 悦子は浩一を恋人なのと雪絵と昭に紹介して、居候を許してしまうのだが、そんな朝に年男が訪れる。見るからに内省的な振る舞いを見せる詩人の典型として描かれている。浩一に向かって、悦子がお世話になっていますと言い、イエッツ詩集を読もうと思って取りに来たとおずおずと告げ、更には少し金を融通して欲しいとも口にする。

 売れないカメラマン、売れない漫画と同類でありながら、別種の男と示されている、少なくとも他の男からは見られている男である。悦子の家に男がいるのを見て、思わず言い訳として口にしたのである。

 中程の場面で、浩一が帰宅すると家の中に人の気配がして覗くと、悦子と年男が何か話しこんでいる。最後の場面では年男は再び食事中の悦子の家を訪れて、イエッツ詩集を返しに来たのだと告げる。

 イエッツ詩集をこよなく愛した詩人年男は、女に金をたかることでは同じ扱いで示されている。とは言え、良くも悪くも当時の詩人は、社会的に認知された存在だったのである。

 いずれにしても売れないことで社会からはみ出してしまった男と、そのような男を拒絶できずに抱え込むことで社会からはみだしてしまった女の生態を描いている。

 圧巻のシーンは最後に登場する。昭がベッドにいる悦子に襲い掛かる現場を浩一がカメラで撮り続ける場面である。

 浩一が昭の女である雪絵が酔っ払った状態でいるのを見て、俺は昭だと耳元で言いつつ抱く。昭は寝ていて気付かないが、悦子は起きていて気付く。俺をたたき出してくれと言うが、悦子は許すと言ってしまう。

 このような経緯があって、悦子のヌードを撮りたいと言い、いきなり毛布を剥がすと素裸の身体が現れる。そこへ昭が殺してやると叫びながら飛び込んでくる。昭が襲い掛かるのを悦子は抵抗しながら、浩一をずっと見続ける目が映し出される。生きものの目である。しかし浩一の目はカメラのレンズと化していて、一組の生きものの姿態を凝視続ける。

 抱かれることに没頭することなく、絶えず浩一に向けられる目、シャッターの連写する音、悦子の目を拒絶して見続ける浩一の目。そのシーンが暫らく、見るものにとっては長々と続くのである。

 この映画の重要なのは、この二人の男がこの写真、自分たちの愛の証なるものを、夜の公園の二人連れに売る最終の場面である。言わば、この映画の見る者にたいして逆撫でする場面でもある。これは『エロスは甘き香り』の意味づけをしたのであり、「香り」を付けたのである。

 1970年の「エロスの香り」である。それは時代を俯瞰すれば、最後の甘き「エロスの香り」でもあり、家族の基本としての今までの男女のエロスの形が、社会的に一つの終焉を迎えたのである。一つの時代の終わり、家族を作ろうとする男女関係の基礎の基礎において、最後の「エロスの香り」の現場に踏み込んだ作品なのである。 


エロスは甘き香り 1973年 監督/藤田敏八  脚本/大和屋竺  音楽/樋口康雄

出演/桃井かおり 伊佐山ひろ子 高野長英 谷本一 川村真樹 山谷初男 五条博


 

 

 

家族って必要ですか

 

 


蜷川幸雄監督 蛇にピアス


家族の関係から弾き出された生きものが、再び求め合う関係に、

そして不条理にも死へとジャンプしていく…

 

 ひとは自分の肉体を改造することによって、心を作り変えることができる。この思いは、自分の幸不幸の原因を、肉体に求める人が多くなった現代においては、充分説得力があり多くの人が受け入れている。それでも頑固に神聖な揺るぎない存在としての心、身体とは別の存在を信じている人も少なからずいる。親から授かった肉体に手を加えることは、神の司る秩序に対しての冒涜だとする考え方があり、その信念を持つ男が『蛇にピアス』に登場する。刺青の彫物師シバである。

 ひとは必ず家族の一員として生まれるが、家庭を持つ人々には必見の作品で、泣ける映画である。

 ことの始まりは、19歳の少女ルイが、同棲相手している18歳の少年アマのしているスプリット・タン、(蛇のように舌に二股の切れ目を入れること)に興味を示し、心を奪われたことにある。アマは蛇のように割れた舌先で、起用にタバコを挟んでくわえてルイに見せた。

 金原ひとみが第130回芥川賞を受賞した作品『蛇にピアス』の映画化されたものであり、登場人物の年齢とほぼ同世代の作家として、その内容から好奇な目を向けられて、世の中に登場したのである。

 芥川賞の作品は、読むようにしていたのだが、そのほとんどは数頁で挫折した記憶がある。しかしこの作品は一気に読み終えた数少ない作品で、内容は味の濃い癖のあるものだったが、文章の手触りが心地よかった。何よりも直接精神にではなく、肉体について書かれた、更に言えば、肉体の痛みを通じて精神の在り様が書かれている作品だった。

 中心となる登場人物は、身寄りのない少女ルイと少年アマ、刺青を彫ることを生業としているシバさんと言われている大人の男である。この二人の男は、刺青とピアスで全身が覆われた異様な生きものとして登場する。それに対してルイは、穢れなき生きものとして設定されている。

 二人の若者が同棲している部屋と、彫物師の仕事部屋に場面は終始し、その間に他者が群れる道がある。ルイが背中に龍と麒麟の刺青を彫ってもらい、舌に割れ目、スプリット・タンにするまでの物語である。

 その中で繰り返し男と女の、或いはその背後に男と男の関係が、唯一の現実感覚である肉体の痛みを通じて、様々な形で示される。更に言えば、それが高じての死に至るぎりぎりの関係にまで進んでいく。背後ではその関係を突き詰めてしまい、死者の出ていることが暗示される。

 つまり家族の関係から弾き出された生きものが、再び求め合う関係に向かい、不条理にも死へとジャンプしていく道筋を描いている。

ルイとアマ、ルイとシバの濃密な関係は、肉体の痛みの共有により支えられ、画面にはその一端のみしか描かれていないが、アマとシバとの男同士の関係も同様の痛みを通じて、強く結ばれている。

ルイはアマと同じ刺青と「スプリット・タン」にする痛みの中で精神の高揚を、シバはルイのその痛みで苦しむのを見て高揚し、生きている現実感覚を得ようとする。

 彫物師シバの全身には曼荼羅のように様々な刺青、花札の猪鹿蝶、麒麟などが彫られ、彼によれば、麒麟は神聖な生きものなのだと言う。

 19歳、痛みだけがリアルなら、痛みすら、私の一部になればいい、とは『蛇にピアス』のホームペイジのキャッチコピーである。肉体の痛みだけが現実感覚で、生きている唯一の意味でしかない。その手掛かりにより再生しようとしたのは、実は家族関係なのかもしれない。

 この映画は、『めがね』と同様に、壊れた家族の再生の映画であるとしたら、肉体の痛みを共有することで果たそうとしたと言える。

 シバはルイに結婚を申し込む。普通のように一人の女と付き合って暮らしをしたくなったと言い、素晴らしい麒麟の刺青を彫ってしまったので、もうこの仕事に悔いはないと言う。家族から弾き出された男女が、再び家族を作り家庭を持とうと歩みだしたのである。

 ルイはアマからもし死にたくなったら、知らせて俺に殺させてくれと頼んだ。またシバからもルイの苦しむ顔を見ると殺したくなる、それでもいいかと聞くと、いいとルイはうなずいて言う。二人の男から倒錯した愛の告白を受けるのである。最後の場面で、その倒錯により、アマは変死体として発見されるのだが、シバによって殺されたのだと仄めかされていて、ただそれはルイの想像の世界に留められている。

 ルイは最初にアマと、最後はシバと家族の再生への道を歩もうとしたと言える。結婚の申し込みまでルイにシバはしたのである。

 しかし彼らの現実感覚、生きていることを感じさせてくれるのは、肉体の痛みでしかない。その痛みのない日常の時間に戻った時、現実感覚のない肉体に戻った時、シバとルイの共同生活は何の喜びもないものとなってしまう。生きている実感がなくなったのである。

 スプリット・タンにしてくれと頼むルイに、人の形を変えるのは神だけに与えられた特権だから、肉体の改造になるからやらないとシバは断言する。舌にピアスはいいけれど、蛇の舌のようには改造しないと。

 シバの存在は、この作品の中で、大きな重要な意味を持つ。痛みだけがリアルな現実感覚である者にとっての、殺される苦痛へとたどる最終の選択の過程の中で、その前に立ちはだかるのはシバの存在である。彼は共犯者でありながら、対立者、破壊者なのである。

 

 家族を支える思いが痛みではないのなら、何によるのか。アマはシバに殺されたと暗示されているが、どうして死ななければならなかったのか。自殺でも、無論他殺でもなく、生きることの究極の唯一の選択なら、家族を持つ意味の問いとしては、再び振り出しに戻ったに過ぎない。


蛇にピアス 2008年 製作/宇野康秀  長谷川康弘  監督/蜷川幸雄  脚本/宮脇卓也 蜷川幸雄

出演/吉高由里子 高良健吾 ARATA あびる優 


 

 

 

 血の繋がった家族って食卓に必要ですか

 

 


萩上直子監督 めがね


 

 目前には青い豊かな海が広がっていて、庭が海である宿「ハマダ」がひっそりとそこで店を開いている。ここは老人ホーム「卑弥呼」ではない。誰でも泊まれる宿であり、宿への道を迷う人が多いものの辿り着いた者は誰でも受け入れる。だがここは携帯が通じない場所である。

 最初の画面から弾んだ「来た」という声が聞こえてくると、もたいまさこの演じるサクラが空港から姿を見せる。声の主のユージとハルナが浜辺のかき氷を売る小屋を開く準備をしている所へ、サクラが軽装で姿を見せる。待ちに待った様子で、深々とお互いにお辞儀をする。

 再び空港の場面で、小林聡美の演じるタエコが現れて、こちらは大きなトランクを引きずりながら歩き出す、こうして春の季節が始まる。

 この二人の女優に片桐はいりを加えたキャストで、同じ監督の作品に「かもめ食堂」があるが、共にゆるい作品である。

 ゆるいとは時間のことで、人間の管理する時間ではなく、自然の波音や風、そこに移りゆく日差しの時間が支配する世界である。太陽の光が部屋に差し込めば目覚め、時間が来れば食事の準備をして食卓を囲み、言葉少なに「たそがれ」の気分を味わいながら過ごす。

 食卓を囲むのは旅行客のタエコとサクラ、宿の主人で光石研の演じるユージ、近くの学校の先生をしている市川実日子の演じるハルナ、タエコを先生と呼ぶ加瀬亮のヨモギで、どうやら慕って追いかけて来た様子の青年である。更に言えば、家族の一員である犬のコージもいる。

 彼らが以前どのような時間を過ごしてきたか、映画では何も語られていない、当然登場人物は何も語ろうとせず、暮らしに疲れた日々、隠しておきたい過去の心の傷など、期待されるエピソードは何もない。

 「卑弥呼」の世界に陰影を与えていた辛い過去のエピソードは、「めがね」にはない。ここには自然の今という時間があるだけである。

 時間が来れば今日採れたものを料理して食卓に並べて、家族のように集い静かに食事をする、それだけの世界を描いている。これは簡単なようで、表現の道としては困難な選択である。観客は波乱に満ちた世界を、穏やかな生活をしている人にも、人には言えない過去があり、心に深い傷を持って生きていると、固唾を呑んで期待して待っている。

 「めがね」では何も特別なことは起きず、やがて休暇が終わったかのように立ち去り、食卓の人数は少なくなり、春になると再び宿「ハマダ」にやってくる。どこからか花の咲く季節とともに来ては去っていく。

 タエコは最初の朝目覚めると、枕元にサクラが正座していて、「おはよう」と挨拶をして驚かせる。他人の干渉をうっとうしいと思うタエコは、このまま寝かせてほしいと主張する。海岸に出ると、砂浜で子供たちがサクラの音頭で奇妙な体操、メルシー体操をしている。その中のユージが一緒にと誘うが拒否する。砂浜の小屋でかき氷をサクラは進めるのだが、にべもなく「結構です」とタエコは断る。

 結局見るべきものもなく、することのないまま、海を見るだけの時間に耐えられなくなる。島にはもう一つの宿があるのを思い出して、朝食前に宿の清算を申し出るが、奇妙な顔をされる。

 マリンパレスという宿に着くと人々は畑仕事中で、薬師丸ひろ子演ずる明るい女に鍬を持たされ、畑仕事をするように指図される。「セーラー服と機関銃」の、「探偵物語」の薬師丸ひろ子が、奇妙に底抜けに明るい態度、押し付けがましい笑みを見せて生活の心得を話し出す。

 タエコが思い出したくない世界の象徴として描かれた唯一の場面で、宿「ハマダ」の者たちが訝しげに見送った意味が示されている。

 かき氷の店を開くために、毎年春の桜の咲く時期になると、何処からかサクラがやってくる。待ち焦がれている人々がいて、彼女を中心とする暮らしの世界が始まる。かき氷の代金としては、お金ではなく、自分の作ったもの渡すことになっている世界なのである。

 かき氷の季節が終わるとともに食卓を囲むのは、ユージひとりの朝食の時間となる。タエコもまた去っていく。やがて犬に子供が生まれ、再び春がきて、最初の場面同様にサクラが空港から出てくる。

 小屋の準備をするタエコ、ユージ、ハルナがいて、更にヨモギもいて、そこへサクラがゆっくりと浜辺を歩いてくる場面で映画は終わる

 毎年春の季節が巡って来るように、世界は続いていくことを「めがね」は示唆している。血の繋がりのない人々が食卓を囲み、「たそがれ」を共有して暮らす世界である。たそがれどきを迎えるひとへ、と公式ホームページに書かれている。

 家族とは時間がくれば一緒に食卓を囲む人々のことに違いない、と思い至ったのである。一緒に食卓を囲まないものは、家族とは言えない。そのような示唆に富んだ映画である。

 ユージとサクラは深い絆のある夫婦に見える。ハルナは娘に見える。

 実際に血の繋がった家族なのかどうか、それは重要なことではない。重要なのは食事の時間に食卓に集まってくる、この一点に尽きる。

 タエコが自動車に乗り帰る途中で、窓から顔を出してめがねを飛ばしてしまう。そのめがねを岸壁で釣りをしていたユージが釣り上げるというエピソードは、絆を示すものとして無理があるが受け入れられる。

 「卑弥呼」の人々にはそれぞれの家族があった。「めがね」も同様のはずだが描かれていない。どうして毎年のように春になると食卓に集まってくるのか、何も問われていないままに、家族以上に家族として食卓に集う日々が示されている、それだけの日々を描いた作品である。

 宿「ハマダ」に集う人々は、もしかすると、家族を作りにくるのかも知れない。「卑弥呼」の人々のように血のつながる家族を捨てて、毎年春になると「たそがれ」の時間を味わうため、食卓を囲みに来るのだと。


めがね 2007年 製作/めがね商会  監督・脚本/萩上直子

出演/小林聡美 市川実日子 加瀬亮 光石研 もたいまさこ 薬師丸ひろ子


  

 

 

 

 

終の住処の家庭に女は必要ですか


犬堂一心監督 メゾン・ド・ヒミコ 女を必要としない男たちの看取りの物語


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 オダギリ・ジョーの出演する映画を何本か見たが、例えば三木聡監督の「転々」でも不安定な存在として、心の揺れ動くひとを演じている。

 ひとは誰でも例外なく年をとり、身近なものたちの最後を看取りながら生き残ったものは、孤独に日々の時間を過ごして、寿命が尽きる。

 「メゾン・ド・ヒミコ」では、終の住処に家族のように寄り集まり暮らしているのだが、これは女を必要としない男たちの看取りの物語と言える。海辺の輝く日差しの満ちた家に、穏やかな時間が過ぎていく。

 最初の場面で、手短に時代とひとびとの出会いの意味が語られている。1958年の銀座に、卑弥呼というゲイバーが開店する。1985年に初代のママは肝硬変で引退し、吉田輝夫40才が店を引き継ぐことになる。2000年に突然に引退して店も閉じ、神奈川県大浦海岸にあったホテルにゲイの為の老人ホームをひっそりと開設する。因みに、1958年には東京タワーが完成し、第一回「日劇ウエスタン・カーニバル」が開かれ、皇太子妃決定が世間の注目の話題になっていた。

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 このように家族の生誕の秘密が示されて始まるのだが、卑弥呼こと吉田輝夫には舞踏家の田中泯、その愛人の岸本晴彦にオダギリ・ジョー、卑弥呼の娘の吉田沙織に柴咲コウが演じている。

 吉田輝夫はゲイであることをカミングアウトして、家族のもとを立ち去る。その為に平穏な日々を生きてきた家庭は崩壊し、母親は不遇の内に死んでしまったと、残された娘の沙織は思い、不幸のもとの父親に対して憎悪を胸に秘めて生きてきた。同じ時間を父親である吉田輝夫はゲイとして生き、岸本晴彦との愛の生活を営んできた。この二人の生活の時間の流れが、「メゾン・ド・ヒミコ」の世界を意味づけている。

 交流の発端は、岸本晴彦が吉田沙織の職場に来て、父親が病に伏す老人ホームの手伝いを依頼したことによる。嫌悪のあまり一旦拒絶したものの、金に困っていたこともあって、休日だけのアルバイトの約束をしてしまう。こうしてゲイの男たちとの生活が始まり、別々に過ごしてきた親子の暮らしの時間が、ひとつの家庭に流れ込むのである。

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 男たちが終の住処に集い暮らしているのだが、彼らには当然以前に別の家族の一員として生きていた過去がある。卑弥呼は病に伏し、彼らの前に迫るのは死の現実である。一人の男が病に倒れてその現実に立たされるが、息子に引き取られて去っていくのを見送るばかりである。

 この家でそのまま居続ける事は出来ないのは、介護するものがいないからである。看取りの現実に立たされ、更にゲイとしての現実を受け入れながら、充実した生活を如何にして送るかが問われる。  

 それは家の外から見れば、おぞましい世界として示されながら、ひとの在りようとしては理想郷に近いものとして同時に描かれている。

 いくつかの注目すべきエピソードがある。女装してダンスホールに仲間と遊びに行った男が、どうしてもしてみたいことがあると沙織に相談する。それは化粧室に行ってみたいこと、口紅を付け直すことだと聞かされて、沙織は他人に怪しまれないようにと付き添ってやる。

 更にその会場で元の会社の部下に出会い、気持ち悪いひととして散々観衆の面前で罵倒される同行の男を目の前にして、沙織の父親への憎悪の意味が問い返され、溶解していく。それは同時に父親の愛人でもある晴彦への思いにも、変化をもたらす事となる。これは単にありふれた出来事なのかもしれないが、男がしようとしたこととされたことに描かれた意味は、彼らが生きることの重要な象徴として描かれている。

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 家庭を壊した父親を許せない沙織なのだが、ゲイであるとカミングアウトされて不幸のうちに死んだと思っていた母親は、実は度々父親と会っていたことを知らされる。それも精一杯のおめかしをして嬉々として逢っていたのだとする写真も見せられる。このエピソードも沙織のそれまでの確信に近い憎悪の気持を揺さぶり始める。

 家庭は家族の人々が絶えず生まれ死んで行く連鎖の中で、存在し続ける。生きているものが、死にゆくものの看取りによってその意味が問われているのである。だとすると、このゲイの老人ホームの持つ意味は、それを基本的に問い返してくれる作品だと言える。

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 象徴的なシーンは最後に訪れる。晴彦は沙織をベッドに誘う。いつしか二人はお互いに好意を寄せ合うようになったのである。輝夫は死んでしまったのだが、晴彦は父親の愛人だった男である。沙織がゲイの父親の輝夫を憎悪し、晴彦にも同様な気持であったものの、好意を寄せるに至る時間の流れの中で、様々なエピソードの中で語られている。

 晴彦は沙織に好意を抱きながらも、ベッドの中で沙織の身体に触れることを晴彦の身体が拒絶してしまう。沙織の職場の上司から沙織と寝たことを聞かされた晴彦は、職場の上司が羨ましいと、沙織に愛の告白をして二人の世界は終わるが、始まりと言うべきなのかもしれない。

 更に重要なエピソードは、卑弥呼が死に残された男たちの団欒で、「母が教え給ひし歌」(ドボルザーク作曲)を全員が歌う場面がある。「母が私にこの歌を 教えてくれた昔の日 母は涙を浮かべていた」がその歌詞である。この映画は男たちの看取りの作品だと先に述べたが、寧ろ家庭に存在する母親賛歌の作品ではないのかと思うに至ったのである。

 卑弥呼とは何者なのか。卑弥呼は邪馬台国の女王であったけれども。

 誰でも終の住処で、誰と過ごすかを自由に選ぶ権利がある。誰を看取り、誰に看取られるか。そこに男は必要ですか、女は必要ですか、それともひとりがいいですか。それにしても男を超えた田中泯の存在は凄い。 


メゾン・ド・ヒミコ 2005年 製作『メゾン・ド・ヒミコ』製作委員会 監督/犬堂一心 脚本/渡辺あや

出演/オダギリ・ジョー 柴咲コウ 田中泯 西島秀俊 青山吉良 歌澤虎右衛門 柳沢真一 井上博一 森山潤久 洋ちゃん