村嶋正浩俳句論集

 

 

 

 

芭蕉さんの話した言葉、仲間の方言 白鳥のすむ風景 古井戸に蛙飛び込む水の音 言葉の香り 春のうららの隅田川

飯田龍太の言葉 自然の風景が見えるということ 作品は誰のもの 蝶が飛ぶということ 楸邨の猫 三十秒の沈黙

 

 

 

 

芭蕉さんの話した言葉、仲間の方言

芭蕉と曾良は旅先の土地の人々の話す言葉が理解できたのであろうか。

 

 

 芭蕉の生まれたのは伊賀上野、奥の細道に同行した曾良は信州上諏訪で、この二人は東北へと旅立った。

 文字は残るが、二人の話した声は残っていない。以前ラジオ放送で、紫式部が生きていた頃に話していたであろう発音で、源氏物語の朗読を聞いたことがある。それは何とも言えない間延びした不思議な印象だった。

 

 井上ひさしの戯曲「國語元年」では、明治の世になって各地方から集まって会議を開いても、言葉がなかなか通じなかったことが示されている。それで日本において、全国共通口語を考えようというお話である。

 現在ではその土地の方言に近いものを話す人はいても、生粋の方言を話す人はいなくなってしまった。学生時代に山形の友人宅に夏休みに泊まりにいったが、早口で家族同士が話していることが、さっぱり理解できなかった。四国は高松の友人の家族同士の会話の時もそうであった。

 滋賀県の山村から東京の近郊へと小学五年生の時に転居して来たのは、もう半世紀程前であるが、緊張で早口になる私の喋る言葉がよく解らない、変な発音だと笑われたことがあった。

 

 芭蕉の一門の人々は、どのようにお国訛りで話をしていたのかを思うと、不思議な感慨を覚える。芭蕉と曾良は旅先の土地の人々の話す言葉が理解できたのであろうか。

 座会で発表された「古池や蛙飛こむ水のをと」にしても、詠む人の言葉遣いで印象が異なり、芭蕉はどのような声で、どのような調子でこの句を発表したのだろうか。更には、この句が発表された時に居合わせた人々は、どこの地方の出身者だったのか。

 それぞれのお国訛りで驚き賞賛し、或いは言葉を失い独り言を言いあったはずなのだが、その話し言葉の豊かさを想像すると、奇妙な感動を覚える。

「水の音」や「古池」の意味を、書き残された言説から実証的に考察されて示されたところで、それは平板なものにしか私には見えない。むしろ、理解を深める手立てとしては、例えば大阪弁の、京都弁の、或いは名古屋弁の抑揚で詠まれた印象は、それぞれ異なったはずである。

 更に言えば、武士も町人もと様々な身分や暮らしの人々がいたはずで、私はその発する言葉が聞いてみたいものである。

「なんと、おと、よろしゅおまんな」「おと、けったいなこと、をと、ぽちゃ、のかえるがおと、ね」などと。

 

 

 

白鳥のすむ風景
森澄雄の場合は、豊かな自然と共にある妻の佇まい全体を詠んでいる。この表現方法の獲得は、ボルネオのジャングルの自然の狂気としての戦場、その中で人間の生死の極限の現場を克明に見たことと、深くかかわっているはずである。

 

 

 ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに  

 西国の畦曼珠紗華曼珠紗華

 炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島    

      

 これらの作品で知られている句集『鯉素』で、森澄雄は昭和五十三年第二十九回「読売文学賞」を受賞した。特に最初の作品は、彼のものの見方、自然に対する向き合い方を見事に示している。

 後に書かれた「自句自解」によると、それぞれ次のような解説がしめされていて、読者に想像する楽しみをさまたげずに、作品の世界に導いている。  

 「湘南二の宮の徳富蘇峰記念館の牡丹が見事だと聞き、見に行ったが、花はあらかた終っていた。その後の小句会で即座に作った一句。幻想の一句。」

 「九月下旬、故郷姫路の郊外、夢前川のほとりの塩田温泉で「杉の集い」。翌日西国三十三所の一つ書写山円教寺に登った。」

 「いつもの通り淡海への旅,、米原で降りる。その時墨染め僧がひとり、ふわっと列車に乗ったような気がした。」

 

「読売文学賞」に同時に小説部門で受賞したのは、島尾敏雄の『死の棘』であった。森澄雄とは同じ長崎高等商業学校(現長崎大学)で、ひとつ年長であったが文学仲間だった。

 島尾敏雄は昭和十九年十月に海軍特別攻撃隊第18震洋隊指揮官となり、奄美群島加計呂麻島で、敗戦間際の日に魚雷艇の「特攻戦出撃用意」の命令が下り、そのまま戦後の日常生活に放り出された体験を持っている。

 小説『死の棘』は、島で知り合った女性との結婚生活、それも心を病んだ妻との葛藤の日々を描いた小説で、言わば妻を育てた加計呂麻島の自然が病み、その怒りの化身としてのひとりの女性に向き合った作品である。

 

 森澄雄の繰り返し語る戦争体験によれば、昭和十九年七月、門司よりフィリッピン、ボルネオに向かったのは、船団二十一隻だったが、無謀な輸送計画の為に激しい攻撃に会い、マニラに着いたのは僅か三隻だったと言う。更に武器も食料も乏しいまま、二百日余のボルネオのジャングルの行軍で、殆どの者が死んで脱落したと述べた後で、次のように戦後を生きることの意味と決意を語っている。

 

 ボルネオから生還した者、中隊で僅か八人。原爆の長崎に復員した。今小学校の同窓で生きている者は一名、大正八年生まれの半数以上は戦争で死んだと言われる。ぼくは、戦後、結婚したら妻を愛し、子供をいつくしみ、範囲は狭いが付き合う人と仲良くし、平凡な人生を送ることを決意、俳句もまた人間として平凡な素直な思いを深く詠みたい、と思った。(「俳句」平成十一年四月号「惨苦の大正八年生まれ」)

 

 俳誌「俳句」の「大正八年組」特集号(平成十一年四月発行)で、森澄雄、佐藤鬼房、原子公平、金子兜太、鈴木六林男、沢木欽一の六人の俳人をとり上げているが、森澄雄と金子兜太は現在も大きな影響力をもって活躍している。因みに、詩人では吉岡実、翌年の九年には鮎川信夫、三好豊一郎がいる。

 

 紅梅や日は高きより照らすなり

 いま吹くは貝寄風といふ櫻貝

 遊びたる野より戻りし朧かな

 かるく口あけてをりたる雛かな

 なつかしき妻ありし日の嫁菜飯

 

 これらの作品は、「嫁菜飯」と題してして特集号に掲載された作品の一部である。俳句を詠む決意として、「結婚したら妻を愛し、子供をいつくしみ、範囲は狭いが付き合う人と仲良くし、平凡な人生を送ることを決意」と述べているが、昭和六十三年に妻を喪ってしまった森澄雄の心の在り様が読み取れる作品である。

 

 句集『はなはみな』(平成二年刊)は、心筋梗塞で急逝した妻を詠んだ句を集めて一書としたもので、巻頭に次の二句が、見開きに一句ずつ示されて向き合っている。妻「アキ子」の作品は、「わがために一日分ずつ分けてくれていた薬包みに書きのこしていたものである」と詠まれた事情を書き添えている。

 

 墓碑銘

 はなはみな いのちのかとて なりにけり アキ子

 なれゆゑに この世よかりし 盆の花   澄雄

 

 この供養の句集には、昭和二十三年三月に結婚して、妻を愛し子供をいつくしむ生活を始めた時代の第一句集『雪櫟』(昭和二十九年六月)から選ばれた作品がある。

 

 火を熾す妻の背にきて秋立つか   

 枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ

 雪櫟夜の奈落に妻子ねて

 姙りて堆く寝て雪降り積む

 家に時計なければ雪はとめどなし

 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり

 

 ここには森澄雄の表現者として決意したその思いが色濃く示されていて、武蔵野の自然に直接さらされながらも穏やかな暮らしがあり、自然の中で生きる妻を慈しむ素直な思いが、そのまま滲み出ている。家族を詠うことにより、ボルネオでの「死の行軍」により見たものを自分の中に封じ込めた。むしろ表現可能な人間の能力の範囲を越えたものを見てしまったからだ、と言えるのかもしれない。

 句集『雪櫟』の書名は、当時住んでいた武蔵野の風景によるもので、九百坪もある櫟林の中に六畳一間の家に住み、生活の部屋は板間であったと言う。「夏は草木が鬱蒼と茂り、秋は栗や柿がみのったが、冬は外景と共に荒涼の枯野となった」と記している。

 作品では妻に直接目が向けられているが、注意深く目を通すと、妻を含めた風景全体を詠んでいることが分かる。妻が、そして彼女を中心にする家族がいて、その者たちが自然の中で寄り添って健気に生きている世界がそこにある。

 つまり櫟林に囲まれた生活での徹底した眼差しに育まれて、戦争で失った自己を回復させたのであり、いずれの作品も辛い内容ながら暗くはなく、静謐な佇まいにある。

 

 ぼうたんや眠たき妻の横坐り  日野草城 「花氷」

 潮干狩夫人ははだしになり給ふ 日野草城 「花氷」

 

 例えば、日野草城の作品を見て分かるのは、ひたすら目を向けているのは妻だけである。「ぼうたん」も「潮干狩」も全てその妻の行為に収斂されていく季語として存在している。     

 森澄雄の場合は、豊かな自然と共にある妻の佇まい全体を詠んでいる。この表現方法の獲得は、ボルネオのジャングルの自然の狂気としての戦場、その中で人間の生死の極限の現場を克明に見たことと、深くかかわっているはずである。

 更に付け加えれば、人間探求派の加藤楸邨に傾倒し師事しながらも、人間探求の立場から距離を置き続けたのは、人間の生き方にこだわりながらも、寄り添い暮らす自然豊かな場所に対しての、徹底した執着があったからである。

 それは決して反人間探求派ではなく、同じ思いに立ちながらも、櫟林の自然の世界を基礎として、人間の暮らす自然のより広い空間へ、更には時間軸を越えて、豊かな虚空そのものの関心へと、世界を広げて行ったからに他ならない。

「無頼としての花鳥風月」と題した俳話の中で述べているのだが、「人間探求派は、主として生活の苦しみや悲しさにポイントを置いて詠んできたから、意識が非常に狭くなったが、諷詠というのは、悲しみよりむしろ、喜びも含めて、もっと大きな世界をもつ言葉だ。」とは、森澄雄の基本的な俳句を詠う態度であった。

 

 第二句集『花眼』の刊行は、第一句集『冬櫟』から十五年の長い歳月が流れて、昭和四十四年となっている。その間には父の死があり、「花眼」の中にはその死の意味が盛り込まれている。

 

 父の死顔そこを冬日の白レグホン

 

 因みに、「花眼」とは老眼のことであり、花がかすんで見える、その花霞のようにかすんで見える眼である、書き記している。

 

 雪夜にてことばより肌やはらかし    

 桐の花妻の齢の白縮             

 欠伸ひとつ湯にゐて妻が除夜を逾ゆ 

 蜀葵人の世を過ぎしごとく過ぐ    

 秋夕映の海より来たり鮃の死     

 餅焼くやちちははの闇そこにあり   

 

『花眼』の作品の特長は、対象物が季節を越えた時間の流れの中に、置かれていることである。前の三句は、妻の姿はその場所の中に溶け込むようにしてあり、その場所で森澄雄は身体に直接触れて感じる時間と共にいる。

後の三句は、巡ってくる季節の時間が、遥かな昔より未来永劫へと向う時間の流れへと広げられ、今まで詠まれてきた櫟林の自然の時間を大きく越えたものとしてある。

「ちちははの闇」の解説として、それは単に自分の父母の意味ではなく、遥かな祖先の父母たちも含めて、餅を焼くことで抱え込んだ闇をも意味しているのだと述べている。

 

 淡海にあこがれるきっかけとなったのは、六年前の夏、ソ連中央アジアの旅をした時、サマルカンドの一夜の途上、チムールの壮麗なイスラムの寺院や学堂の遺跡を見た感動と疲れの中に、何故かふと芭蕉の「行春を近江の人とをしみける」の一句が浮かび上がり、深々とむねを打った。 (俳論集『俳句のいのち』)

 

 このように述べる森澄雄は、櫟林の世界から大きく飛躍の契機として、昭和四十七年七月、五十三歳のとき、加藤楸邨のシルクロードの旅に同行したことをあげている。

 戦場の苛酷な光景、家族との櫟林の静謐な風景を見て、更にシルクロードの遺跡をたどる旅をしてきた。こうして芭蕉の句との出会ったのだが、芭蕉が『奥の細道』の旅を終えての一時、先人達に思いを馳せたその心に、森澄雄もまたシルクロードの旅の思いの中で深い感慨を覚えたに違いない。

 

  妻がゐて夜長を言へりさう思ふ   『所生』

 

 この句は六十七歳の時の作で、妻の突然の死に出遭う二年前である。さりげなく添えられたかに見える言葉「さう思ふ」は、単に妻の思いに相槌を打ったのではない。

 芭蕉が遊んだ近江に、森澄雄自身が身を置き思いを馳せたように、「妻がゐて」という夜長の、それも時代を遡る多くの人々がそうであった遥かな時間と場所に思いを馳せて、そう言ったであろう人に向って、「さう思ふ」と断言したのである。

 芭蕉が「おくの細道」を終えたときに思ったであろう心の在り様にまで、時空を広げた世界がここにあり、森澄雄の「妻を愛し、子供をいつくしみ」と決意した世界としては、最高の到達点としての作品である。

 

 八月十七日、妻心筋梗塞にて急逝。他出して死目に会へざりき・・・。

 木の実のごとき臍もちき死なしめき   『所生』

 

 この作品は「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」とは異なり、ひとの身体の表現としては、ある種のおかしさを敢えて使い、死なせた悲嘆の思いを強めている。それは当然妻の死だけではなく、嘗て暮らしたことのある場所、木の実のある櫟林の自然界を含めての死に対するものでもあった。更に言えば、このことが櫟林の世界から自在の世界への飛躍にと向わせたのである。

 

 紙衣着て音してさそふしぐれかな   『虚心』

 

 この作品はまさに虚心であり、おかしみの中にある。芭蕉は『奥の細道』の旅を終え、使用していた紙衾を、門人の一人に文と共に形見に与えたという。「なほも心の侘びを継ぎて、貧者の情を破ることなかれと『紙衾ノ記』」と。

 森澄雄の「紙衣着て」の言葉は、その「紙衾」に対する芭蕉の思いに心を寄せて、生まれたに違いない。

 

 

 

古井戸に蛙飛び込む水の音「蛙」は本来の蛙に戻って俳人の前に現れた。様々な衣装をまとった「蛙」から素の蛙に、芭蕉は戻したのだ

                   

 

 芭蕉の俳句の中では「古池や蛙飛びこむ水のをと」が一番好きだと言うと、芭蕉の俳句に少しでも興味のある人からは怪訝な顔をされ、よりによってこの句なのという目で見られる。

 誰にでも、俳句にまったく馴染めない者でも書かれている言葉の意味は理解できる。読んだ者に感動を与えるかどうかは別にして、意味不明なことは何も書かれていない。単純明快な言葉の展開であり、「蛙が飛び込む水の音」という水の音の内容なのだから。

 

 この句との出会いは小学校四年生の頃で、何の授業だったのか記憶に無いのだが、「井戸に蛙が飛び込んだって」と友人と話したことを不思議と覚えている。

 その鮮明に記憶に残っている原因は、井戸に飼っていた蛙を落としてしまったことにある。田舎のことで何処の家にも水道はなく、わが家でも土間の隅に井戸があった。竹竿の先の桶で水を汲み上げて使っていて、上から覗き込むと遥か暗い底に自分の顔が映って見えて、恐ろしく引き込まれそうに感じた。

 よりによって飼っていた蛙の落とした音を聞き、初めて死の恐怖を子供ながら感じた。母親からは近くで遊んではいけない、落ちると死ぬからと言われ続けたからである。

 後になって「古井戸に」ではなくて、「古池や」であることを知ったが、気持ちは相変わらず古井戸のイメージの延長のままの「沼」に近く、死にまつわるものであった。

 作品のモデル探しは有害で困ったものだが、俳句の世界に入り、芭蕉が居住していた庵のそばの池、それも川魚の生簀の跡の池だったと知り愕然とした。暗くて恐ろしい井戸ではないのだ。

 

 この句に当時の俳人が驚いて困惑したのは、恐らく「蛙」についての文芸上の豊富な知識を有する人だったに違いない。何しろ鳴く声ではなく飛び込んだ水音であり、飛び込む「音」そのものに触れているだけなので、「声」にまつわる古来の豊かな教養を基にしての鑑賞が不用なのである。無教養な人間には分かるが、教養人には困惑する句なのだと思うに至ったのである。

 

 友人が子供の頃空襲後の東京にいて、見渡す限りの焼野原の風景を感動的に語るのを聞き、不謹慎ながら羨ましかった。その時に呑んだ水が美味かったとも語った。誤解を招く言い方だが、その何もない爽やかさに惹かれた。

 ふと今思うことは、芭蕉は恐らく豊富な「蛙」の知識の高みから、一挙に飛び降りて作ったのがこの句なのだと。 

 それによって、「蛙」は本来の蛙に戻って俳人の前に現れた。つまり様々な衣装をまとった「蛙」から素の蛙に、芭蕉は戻したのだと思う。そのような爽やかな句だと思うのである。

 

 

 

 

言葉の香り言葉の香り…それは微量ではあるが、季語という言葉に深みを与えているのではないか

 

 

 北園克衛の詩集『ガラスの口髭』に顔を近づけると、少しほこりっぽくて何か朽ちた古木のような香りがする。

 裏表紙には「飯島書店 池袋西口バス通り」のシールが貼られている。詩人の友人からこの詩集を譲ってもらったので、多分その友人は飯島書店で購入したのだろう。

 もっともその友人も、誰からか譲り受けたのかもしれないとすると、この香りは最初の購入者、次ぎに古書店、更に私の友人の本棚を巡って付着してきたもの違いない。 

 だが、同時にこの香りは『ガラスの口髭』の作品が醸し出すものであり、きっとそれに違いない。

 『ガラスの口髭』そのものからかもしれない。

 

 なにか影のようなものがしきりに空間をよぎっていた

 その影

 と

 影

 のなかに

 なにか非常な緑

 またあるいは紫があった

 

 作品「希薄な空間」はこのようにして始まっている。

 この言葉の中には、鮮やかな色と共に微量の香りがある。この本のそれは、もしかするとこの本の所有者たちがその微量の言葉の香りを吸い込んで、溜息をはく中で付着させたものではないかと想像している。                   

 

 有季定型。そこには当然様々な香りをもっている季語があり、例えば「檸檬」、この季語を触媒にして、作品世界が醸し出す香りが当然生み出される。だが、そういうこととは別の、定型の言葉が持たらす香りがあるのではないかと最近思うのである。

 句会の中で読み上げられる作品の息づかいに、そんな香りをふっと感じることがある。きっとそれは微量ではあるが、季語という言葉に深みを与えているのではないかと。

 北園克衛の削ぎ落とされた言葉の詩の世界から俳句を見ると、更に強くそのように思うのである。

 

 

 

 

春のうららの隅田川当時夢見た「うらら」に相応しい作品をいずれ書きたいものだと思う日々

 

 

 私の思い出深い愛唱歌に「花」がある。隅田川を題材にしていて、今なお多くの人々に歌われ親しまれている。「春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が」という歌詞で、滝廉太郎作曲武島羽衣作詞によるもので、明治三十三年に作られている。

 私の育った場所は、彦根から更に奥まった、近江鉄道沿線の日野町である。背後に鈴鹿山脈が間近にあり今では寂れた街で、その昔蒲生氏郷の日野城の城下町で由緒ある場所であり、近江商人を輩出した場所でもある。

 山村の田舎の子供にとって、担任の若い女の先生がよく歌って聞かせてくれた「花」の中の「隅田川」の風景は、華やかな花の都そのものであった。明治時代の華やかな隅田川の春の様子は、当然昭和の時代とは異なっていたはずなのだが、校庭のすぐ横には小川があり、桜の木が植えられていたこともあって、身近な思いを抱いたのである。隅田川は遥かな夢のような川で、水彩画の風景のように、船が行き交い、船人が楽しく歓談している光景は、心躍る世界そのものだった。

 間もなく東京の郊外の地に、小学校高学年の時に引越をし、毎日隅田川を越えて電車で中学校に通う生活を送ったのだが、一瞬のうちに通り過ぎる隅田川にまったく気付かないまま過ごした。

 初老と言われる年になって、隅田川の言問橋近くに会社の事務所が出来て初めて、隅田川を日々目の当たりにし、改めて「花」の唱歌を思い出し、同時に子供の頃夢見た東京を思い出した。

 

 春のうららの 隅田川  のぼりくだりの船人が

 櫂のしずくも花と散る  ながめを何にたとうべき

 

 小説家幸田文は隅田川沿いで生まれ育った。生まれが明治三十七年なので、唱歌「花」が出来たすぐ後になる。年譜によると、明治四十三年秋に隅田川が氾濫し、弟とともに叔母幸田延のもとに預けられている。このことから判断すると、隅田川は暴れる川でもあった訳なのだが、春には花見の遊山船が多く行き来したのを幸田文は見ているはずである。

 だが父露伴はやがて隅田川はくさると言っていたと文章に書き残している。隅田川の行く末を見通していたのかもしれない。

 

「春のうららの」うららは副詞「うらうら」の転用だということだが、春の豊かなイメージとしてのこの言葉を聞くと、昨日のことのように、先生の歌声を聞く小学生時代に戻ってしまう。

 当時夢見た「うらら」に相応しい作品をいずれ書きたいものだと益々思う日々なのだが、先日万太郎の次の句に出会って心打たれ、心に染み入るものがあった。

 

 うららかにきのふはとほきむかしかな 万太郎

 

 

 

 

飯田龍太の言葉俳句は作者の存在の主張を盛り込むには、あまりにも少なすぎる言葉での表現である

 

 

「飯田龍太さん死去」「八十六歳、戦後の俳壇をリード」の大きな活字を朝刊に見つけた日から、多くの歳月が過ぎた。個人的にはお会いしたことも、講演などでお目に懸かる機会すらなく過ごしてきた。詩を書き続けてきた私にとって、表現者としての言葉の扱いを教わったひとであり、ある作品に出合ったときの衝撃的な印象は今でも覚えている。

 

 一月の川一月の谷の中  飯田龍太

 

 私の受けた衝撃の意味は、たったこれだけの文字で文学の表現として成立させているという事実にあった。

 この作品を直接そのまま読み取れば、「一月」の「川」とその川らしき「谷の中」とが言葉として示されているに過ぎない。ただそれだけのことである。作者の名前を消して読むと、もはや作品としては成立しないぎりぎりの表現である。

 それ以上具体的に何も書かれていない以上、あらゆる想像の可能性の中に、つまり読者の想像する思いのままに全てが委ねられていて、正しい鑑賞があるとすれば、全ての読者の想像の数だけあると言える作品である。

 しかし、ひとたび「龍太さんの」作品であるとの前提で読み進めて行くならば、読者はこの龍太さんの全人格をどれだけ理解するかに委ねられてしまう作品でもある。

 およそ表現の世界では、作者が感動をもって見た世界が具体的に示され、つまり少なくとも一月の「川および谷」の在り様を読み取る手がかりが示されている。だがこの作品はそれが基本的に欠落しているように私には見えたのである。

 俳句は作者の存在の主張を盛り込むには、あまりにも少なすぎる言葉での表現である。この作品はその極端な見本でありながら、この作品を読み口にするとき、世界の隅々まで具体的に書かれたように見える。つまり形の上では、言葉での表現の基本とは対極の作品でありながら、不思議なことに完璧な表現を果たしているように受け取れるのである。

 龍太さんのこの作品は、詩と詩ではない領域、つまり言葉と言葉以前の間の国境で詠まれているに違いない。それは単に俳句の言葉に限定したものではなく、広く表現の言葉の在り様を見据えてのものだと思えて戦慄を感じたのである。

 この作品の言葉は龍太さんのものであり、同時に私のものでもある。だからこそこの作品は時代を超えて、場所を越えて生き続けることが出来る作品としてあると思う。

 

 

  

 

 

自然の風景が見えるということ ゴッホが思いを馳せた日本の冬景色への精神のあり方

 

 

 1888年2月20日の日にゴッホはパリを捨てて汽車で南フランスのアルルの町に着いた。その日はその地方では珍しく荒れた天候で、60センチもの雪が積もりまだ降り続いていると、弟のテオドルへの手紙に書いている。

 日本の冬の景色もこのようなものに違いないと日本へ思いを馳せて感動したという。雪と同じように明るい空へ聳える白い峰の雪景色は、まるで日本人が描く冬景色のようだと書き残している。

 その時の雪の景色の絵が残っているそうであるが、個人蔵の為に公の場には出されたことがないと、何かの本で読んだ記憶があるのだが、でもぜひ見たいものである。

  冬景色の日本へ熱い思いをいだかせた絵(版画)は、具体的にどのようなものだったのかは分からないが、日本人としてはある程度想像することは可能である。

 でもそれは自然の光景が変貌している平成の時代に、それも雪が年に数回しか降らない土地で生きている私の想像を越えているかもしれない。更に言えばその日本の風景は、私にとってももはや外国人から見た異国の風景でしかないだろう。

 

 さ霧消ゆる湊江の 舟に白し、朝の霜

 ただ水鳥の声はして いまだ覚めず、岸の家。

 

 烏啼きて木に高く、人は畑に麦を踏む。

 げに小春日ののどけしや。かえり咲の花も見ゆ。

 

 嵐吹きて雲は落ち、時雨降りて日は暮れぬ。

 若し燈火の漏れ来ずば、それと分かじ、野辺の里

 

 冬景色を鮮やに描いたこの作品は、「尋常小学唱歌(大正2年)」に採用されているのだが、子供の頃よく聞いた記憶がある。まさしく日本の当時の冬の景色の典型、当時の彼らが見て詩の世界に取り込んだ風景に違いない。

 因みに、「小春」とは陰暦の十月の異称で、「小春日」は春のような暖かい晴れた日のことであり、「時雨」は冬の初めの頃に降ったりやんだりする雨のことである。

 この唱歌の湊江の風景に、豊かな雪山が何故か懐かしくも幼いときに見た記憶として見えてくるのである。とは言え、もしかするとゴッホと同様の立場で時空を越えて思いを馳せて見ているだけなのかもしれない。

 小学唱歌「冬景色」の作詞作曲者は未詳となっているが、恐らくその人も懐かしき過ぎ去った時代への思いに支えられて、その詩を書いたに違いない。その意味からしても、ゴッホが思いを馳せた日本の冬景色への精神のあり方と近いものがあると思えてならない。

 

 

 

 

 

作品は誰のもの谷川俊太郎は戦争で傷ついた地球に颯爽とやってきて、地球の言葉を、それも日本語を最初に発した宇宙人ように登場した

 

 

 詩人谷川俊太郎の詩集「二十億光年の孤独」が世に出たのは一九五二年で、半世紀以上も前である。当時は戦争の傷跡が生々しい時代で、詩人ばかりではなく多くの表現の現場にいた人々は、戦争の傷を引きずり、更には戦争責任の問題に関わっていた。

 

 三才

 私に過去はなかった

 

 五才

 私の過去は昨日まで

 

 ・・・・・・・

 十八才

 私は時の何かを知らない

 

 この詩集の最初の作品「生長」は、言葉を持たない、つまり過去のないひととしての宣言から始めている。

 谷川は戦争で傷ついた地球に颯爽とやってきて、地球の言葉を、それも日本語を最初に発した宇宙人ように登場したのである。それ以後は日本語の言葉の現場で絶えず最先端の位置に居て、実験的に果敢な取り組みをしてきた稀有な日本語使いとして生きてきた。

 詩人と言えば谷川俊太郎と世間が認めるその彼が、エッセイ「自作を語る」において、自作の意味に疑問を投げかけながら、「成人してから子供を作ったが、これを自作と呼ぶのは驕慢かもしれない、というように、自作のつもりで実は自作でないものも数々ある」と述べている。更に「自作をつきつめたところにある他作、それが言葉というものであろう。自作なんて糞喰え」と断言している。

 ここで述べているのは言葉の本質である。言葉は当然歴史の産物であり、多くの過去の日本人が豊かなものに育ててきた共有の財産として存在している。

 優れた言葉の使い手の谷川でさえ、自分の作品のほとんどはその恩恵によるものであり、詩の作品の丸ごとを自作とは言えないと述べているのである。つまり果敢に実験的な作品をも作り続けてきた背景には、このような言葉に対する認識があったのである。

 因みに、詩人谷川の人生の衝撃的な出来事は、世界大戦ではなく、目撃してないが明治維新だったと述べ、日本語が大きく歴史的変貌した事件のことを指している。

 

 俳句は恐らく詩よりもその恩恵を多く受けている文学であり、極論すれば、自作という考えがそもそも不必要な表現として存在している。有季定型、つまり日本語の歴史的恩恵の豊に詰まった方法そのままで書かれている。だからこそ豊かな表現手段として時代を越えて生き延びてきた。

 そのように思うと、自分の何かの思いを直接付け加えることの出来ない俳句こそ、最も豊かな日本語の言葉の文学ではないか。

 

 

 

 

 

蝶が飛ぶということ鶯は本当にホーホケキョと鳴くのだろうか

 

 

 以前入院して一ヶ月ほど病院のベッド生活をしていたことがあって、毎日のようにラジオを聞いていた。何かの番組の中で詩が朗読され、犬の鳴き声を「のあるもう とあるもう とうあああ」と表現されたのを聞き、耳に強く残った。その奇妙な音の感覚が退院後もずっと残き、病院生活の記憶が薄れても、時折思い出すことがあった。

 この詩が後になって、萩原朔太郎の作品「遺伝」にあることが分かった。実際は「のをあある とをあある やわああ」だったのだが。これが彼の聞いた犬の鳴き声だった。

 

  音は不思議なもので、聞く人によって聞こえ方が違う。考えてみれば実に当然なことではある。子供の頃日本の鶏とアメリカの鶏とが鳴き方が違うと聞かされて驚いた。もちろん鳴き方が違っている訳ではなく、聞こえ方の問題だったのである。その頃見たアメリカの映画の中の鶏は、当然日本と同じようにけたたましく鳴いていた。

 蟋蟀、松虫、邯鄲、草雲雀、鉦叩、馬追、秋の虫は、子供の頃の夜は虫の音しか聞こえなかったので、自然と蟋蟀の中でも幾つかの種類を聞き分けることが出来た。今は虫の音を聞き分け、その虫の名を当てることが出来なくなってしまった。虫の音さえも忘れた。

 俳句の世界に入り、秋の虫の季語に接していて気が付くと、虫の音からではなくて、邯鄲、草雲雀という文字から入っている自分に気付いた。音を聞いていない。言葉の海の中の草雲雀という文字から入っているのである。もちろん草雲雀の文字は豊かにその虫を表現し、的確にその虫の音を優れて表示していると言えるのだが。

 虫ばかりではなく、鳥の声も聞き分けることが出来なくなった。鶯は本当にホーホケキョと鳴くのだろうか、とふと思う。鳥ばかりではなく、様々な音が聞き分けられなくなってきた。自然の音、生きものの音、生活の音が聞こえなくなった。聞く耳をなくしたのかもしれない。

 このような時にあって、季語の生きものとしての力の大きさを思わずにはいられない。でもそれが何かを失った代償ならば寂しいことである。

 

 

 

楸邨の猫主人公に挑みかかろうとし、憎しみに満ちた目つきを向け続けて反目のうちに毒殺された「しろ」

 

 大正十四年、加藤楸邨が二十歳の時、父健吉は病死している。その後単身上京して、東京高等師範学校の中の第一臨時教員養成所の国語漢文科に入学して、卒業後埼玉県粕壁中学校の教員となった、二十四歳の時である。

 句集「寒雷」(昭和十四年刊行)の後記で楸邨は自分のそれまでの生涯に触れて次のように述べている。

 「私にとって最も不幸なのは故郷を持たぬことであった。私はいつしか故郷を過去に見出さず、之を未来へ未来へと押しやって未知の世界にのみ故郷をみるようになってゐた。」

 事実父親の鉄道員としての職業の関係から、小学校を三度、中学校を三度も転校を繰り返しており、東京、山梨、静岡、福島、岩手、新潟、石川、茨城、東京と転居し、同一地に三年といたことがないと述懐している。

 この境遇は楸邨の命ある「生きもの」に向ける独特の眼差しを否応なく育ててしまうことになった。それは人としての目の高さから他の生きものへ向ける眼差しというよりは、更に進んで命ある「生きもの」としての、楸邨も含めた全ての命ある「生きもの」の目の高さと同等な目の水準で見つめる眼差しを獲得してしまった。

 粕壁中学校の教師となった昭和四年に矢野チヨセと結婚して粕壁に居を構え、長女道子、次女明子、長男穂高、次男冬樹が生まれ、昭和十二年東京文理科大学国文科の学生になる迄の八年余をここで過ごした。次女の明子は不幸にも疫痢の為に急死している。

 この粕壁時代に俳句と出会い、粕壁町にあった我孫子病院に来ていた水原秋桜子に巡り会っているのである。

 

 「猫というものは、私が今は亡き妻の知世子と埼玉県の古利根川のほとりに新居を構えた時、知世子が子猫を貰ってきて育て始めてから、いつも私達の生活の中に入ってきて、家族の一員のやうな感じで存在したものなのであった」

 加藤楸邨は猫との出会いについて、句集「猫」(平成二年刊行)のあとがきで振り返り述べている。この句集は楸邨自身による句集ではなく、出版社の企画ものとして猫にまつわる句だけをまとめたものである。俳句だけではなくて、雑誌「馬酔木」に発表された私小説風な作品も掲載されている。

 猫と言えば夏目漱石の「我が輩は猫である」の猫が有名だが、楸邨の猫はまさしく生きものそのものの猫である。

 人間もまた生きものである、そのように同じ命あるものとしての「生きもの」の猫、それが楸邨の猫である。漱石の猫は人間の知性を持って生きた猫であった。 

 楸邨の家族を私小説的に描いた作品の「四十番地の猫」(「馬酔木」昭和15年6.7月号)という題は、当時住んでいた番地である。粕壁中学の教師を辞して、東京文理科大学国文科に入学すべく、昭和十二年に東京に移住した住所が、小石川区坂下町四十番地であり、間近に護国寺があった。

 俳句と単純に比較する事は無理があるのだが、楸邨の生きものに対する視線、態度、表現の方法が優れて的確に知ることのできるものとなっており、この作品が果たす役割は大きいと思われる。

 

 四人の子供達は晩飯を待ちくたびれているので、五号通に踏み込んだ私の重い靴音を敏感に聴きわける。殊に夕焼けが刻々に冷たくなる晩秋から初冬の頃は、一号通の分譲地で追いまわす蜻蛉も少なくなり、蟋蟀もまったく見られなくなるので、私の靴音だけがいちずに待たれるのだ

 

「四十番地の猫」はこのような書き出しで始まっている。

 ここには今はなくなった日本の家庭団欒の情景、夕食を父の帰りをまって始めるという習慣の家族、子供達のお腹をすかして待つ騒々しい過程が鮮やかに描かれている。学生服を着た父親のいる決して豊かではない一家は、一番奥まった五番通の奥に家がある。この世界にひととして生かされて、家族に向けている主人公の眼差しは父としてのものである。

 生活者としての父でありながら学生でもある主人公を、様々な葛藤に戸惑いながらも、猫を中心にした家族の生活の中で、命の翻弄されていく姿と共に書いている。

 「お父ちゃん、今日ね、しろが帰って来たんだ」という次男の冬樹の言葉によって、激動のスタートとなり、次々と世界は波乱に満ちていく。猫の「しろ」は乳離れしない状態で捨てられていたのを拾ってきたものである。子供達が可愛がり育てていくほほえましい様子、更には近所の犬や猫との居住空間の争いが具体的に細やかに書かれている。

 「のんき」「ミミ」「たま」「チビ」「親分」「爺い」「丹下左膳」「狸」、これらは犬や猫に付けられた名前であり、その名前の由来を細かに説明している。「狸」は毛色が狸そっくりの焦茶色で、老獪で喧嘩に強い猫で、私と「狸」は反目し合い、いずれ戦いに挑まなければならないと日頃思い、それはまさしく命ある「生きもの」としての反目である。

 飼い始めてから半月程して、猫の「しろ」が行方不明になってしまう。乱暴にも誰かが長い塀で囲まれた裏の墓地に投げ込まれと、子供は噂を聞いて父親に報告する。

 何処かで生きていてほしいと願いつつ諦めにも似た気持ちになった頃、「しろ」は戻ってくるが、以前のようには家に寄りつかなくなってしまう。もう昔の「しろ」ではない。

 「犬は三日飼われると三年忘れないんだね」と言う子供の言葉に、不服の気持ちを持ってしまう。更に「この不敵な、決して人間を信用しない「しろ」という奴が頼もしかった。霜の中で目を光らせて、自分だけの力で横行しているこの動物の荒々しい魂が羨ましい感じを与えた」と、自分の思いを書き記しているが、それは優しい父親の持つそれではない。

 この「しろ」は最後の場面で毒殺されてしまい、広場の枯れた叢の中で死んでいたと子供が報告する。

 

 「毒で殺されたんだって」

と穂高が言った。あの目付を私のように憎んだ者がいたのかという思いが心をかすめた。

 「かわいそうだな」

と口々に言っている子供達を見ていて、私はあの目付の底に、自分の目付を見た憎悪ではなかったかしら、とふと考えてみた。

 

 ここで「目付」と書いているのは、決して家に寄りつかなかった猫とある夜偶然にも出会った時、主人公の父に見せた「しろ」の不敵な眼差しを指している。

 妻が食事を与えることで何ごとかを許したのか、少しづつ家に近づいてくるようになる。ある日夜遅く帰宅した時に、妻のいる部屋の窓辺いるその猫を見つけ、「しろしろ」と呼びかけるだが、敵意に満ちた眼差し向けて見せたのである。

 猫の毒殺という凄惨な結末で、この家族の猫にまつわる作品は終わっている。けれど、更に数行のエピソードを楸邨は書き加えている。それはすさまじいばかりの命ある「生きもの」に対する視線と態度として示されている。

 

 この猫が妙に心に残っていたので、後に水原先生にお話してみたら、猫の嫌いな先生は伝書鳩をとられた時の話した後で、「空室へとじこめてやったが、十日位生きていたよ」と言われた。

 

 このようにして「四十番地の猫」は実に素っ気なく終わっている。この部分だけを取りだして読むと、水原秋桜子という俳人は何とひどい人なのか、鳩をとられたからと言って、猫を十日間も空室に閉じこめておくという行為は、それにしても理不尽過ぎると思う人も中にはいるだろう。

 もちろん楸邨はそのような意味でエピソードを付け加えたのではない。むしろその十日間生きていたという猫の眼差しで、作品全体の世界を改めて見渡したのである。

 生きものが生きていることにおいて向ける視線の意味を、最後に改めて書き加えて完成させた。主人公に挑みかかろうとし、憎しみに満ちた目つきを向け続けて反目のうちに毒殺された「しろ」、更に水原秋桜子に閉じこめられて猫が最後に示したはずの視線にまで降りて、命ある「生きもの」の世界を見渡そうとした。

 それは当然世界的規模で戦争に突入する昭和十五年の時代背景にあって、加えて楸邨が自ら語った故郷を持たない根無し草の境遇により、人間探求も更にその先の命ある「生きもの」の探求へと自ら追い込み獲得した表現者の位置であった。

 

 句集「猫」の中で特に好きな句は次のものである。

 

 猫うまれ死に桐が咲き桐すぎゆく

  命あるものが、人であれ猫であれ、桐であれ、命の果てへと進んでゆく様が淡々と述べられていて、そこには命あるものの等しく時間の流れの中で過ぎていく姿としてある。 

 

 猫と生れ人間と生れ露に歩す

 これもまた同様に、あるものは猫と生まれ、あるものは人間として生まれているという視線は、一見何でもないようだが、人間という高みから猫を見下ろす視線ではないということであり、そこにこそ「歩す」という言葉の重みがある。

 

 句集「野哭」の有名な句「雉子の眸のかうかうとして賣られけり」があるが、楸邨のひととしての眸ではなく、むしろそれを越えての雉子と同じ命ある「生きもの」としての眸と、対峙させて描き出している。死んで吊された雉の目ではなく、「生きもの」としての眸、猫「しろ」の反目する激しい眸と同様のものがある。

したがって、その雉子を哀れなものとして、人間高みの視線で見ているのではなく、賣られる憎しみの目と同等に向き合っているのである。

 楸邨は人間探求の果てに、人間のもつ視線を飛び越えてしまって、命ある「生きもの」の持つ凄まじいまでもの視線の獲得へと突き進んでしまった。恐らく、その為に優れて人間の視線に留まった草田男の表現方法とのすれ違いが生じてしまったのではないかと、ふといま思うのである。

 

 百代の過客しんがりに猫の子も

 

 それにしても、この目の前を歩いていく猫は、あの「しろ」の何処かで生き延びていた子孫なのか、それとも生まれ変わりなのだろうか。

 

 ところで谷川俊太郎は猫について次のような詩を書いている。

 

 ある朝ぼくが起きると

 部屋のすみでミーニャが死んでいた

 ぼくは彼をタオルでくるんで棚の上に置いた

 棚板と同じくらい固くなっていた

 飼い主であるぼくの女はまだ眠っていた。

 

 ミーニャはいつもひとりごとを言っていた

 まだぼくと女が別々に暮らしていたころ

 電話すると女の声のうしろで必ず彼の声が聞こえてきた

 でも年をとってからは無口になった

 すぐ人のひざの上に乗った

  ・・・・・・・・

 ミーニャは女の住んでいた家の前の林に埋めた

 線香を立てて花も飾った

 十一月になって妻は離婚届に判を押した

 妻は死ぬまでぼくに腹を立てつづけるだろう

 息子と娘はぼくに気を使ってくれるが本当の気持ちは分らない

                    「猫たちと」より

 

 俊太郎の猫は女が飼っていて、そのまま女と一緒に暮らすようになってついてきたのである。

 この作品は加藤楸邨の句集「猫」に栞として、谷川俊太郎が書いた作品である。句集「猫と」と堂々と向き合った詩である。

 

 

 

 

 

沈黙の三十秒言葉について深刻な問題を抱えた二人の文学者が示す、沈黙の長さと深さ

                   

 

 三十秒という時間は短いようで長い。科学的な時間の意味からすれば三十秒は三十秒であって、それが短いか長いかは人の心理的な受け取り方の側面での話しである。心地よい音を聞いている場合と、嫌な音を聞いている場合の時間は、当然何倍も長く、或いは短く感じるものである。

 対談という表現形態があって、気楽に読めて、話す人の話しぶりが見えるので、比較的よく読む。その都度感心するのは、途切れなく語られる豊富な知識と、更に途切れることなくお互いに言葉を交換しながら道筋を付けていく才能である。

 もっとも、発表されたものは、現場で語られたそのものではなく、ある種加工されたものであると、常識的には分かっているつもりなのだが、それにしても驚くべきことである。

 ところが対談の本を読み返して、最近衝撃を受けたことがある。以前読んだはずなのだが、大岡信と谷川俊太郎の対話集「詩の誕生」を読み返して、初めて気が付いたのである。

 

大岡―芸術に何かを求めるということは、自分のなかに欠乏を意識しているからだ。……自己満足している人間にたいしては、詩が働きかけるきっかけがない。十五秒ほど沈黙でもね、完全に自己満足している状態というのは考えられない。

谷川―芸術的なものがまったく必要じゃない人間はたぶんいないのじゃないか。……おれの詩がなぜ書かれたかわからないと言った人も、もしかするとロックは好きかもしれない。そういうふうに部分的に補充してしまっているということはあると思うね。三十秒ほど沈黙やっぱりそれは、言葉というものをどう考えているかということにつながっているのかもしれない。

 

 この本では二人の会話が途絶えた時間が示されているのである。それはたった十五秒であり、たった三十秒に過ぎないのかどうか。本の内容は直接当っていただくにして、この沈黙の長さと深さは、言葉のもつ深刻な問題を抱え込んだ二人の文学者が示している。

「−十五秒ほど沈黙−でもね」、「−三十秒ほど沈黙−やっぱりそれは」と書かれているが、「でもね」、「やっぱりそれは」の持つ意味が、沈黙の時間によって意味が変わってくるはずである。それは言葉が生れて立ち上がるまでの沈黙としてあるのかもしれない。

 従って、この対談は生々しい格闘技としての言葉のやり取りであり、その現場を如実に示しているのではないか。