発育する死、つまり生鮮な腐敗について 腐敗の円環運動から、運動そのものを抽出してみるならば、そこ には、発育ざかりの死が連鎖反応式に共棲している。腐敗する物J の陽気な一面〈臭気〉は、これらの乳くささであり、自己中心主義 の暈を競っておしひろげている。臭気は層を重ねながら、物Jをつ つみ領野を拡大していくが、発育ざかりの死は、その自立性を物J の中枢に確保している。そのため、死の発育につれて、腐敗運動は 物Jの外殻へと反転する。波における水の上昇運動に酷似している が、物Jがじっさいより膨脹してわれらに感受されるのは、波の高 みを頂点とする感受性の硬化癖のためである。しかも腐敗は進行す るとわれらは錯覚する。しかし、錯覚ほど十全にわれらを納得させ るものもない。 ところで、こうした運動のさなかに、物Jのかつての生鮮さが復 活したかのような随所の反応を見逃すわけにはいかない。 死は定位置から無数の方向へ同時に歩みだす。一方、この多彩な 指向性のなかには、はじめから定位置をめざす死がある。それこそ が《無表情》である。これを生鮮さの核といえるのは、死―無表情 ゆえのとまどいがわれらを襲い、つぎにわれらをしてとまどいを死 ―無表情へ反射させているためである。周囲の決然たる指向性のな かにあって、とまどいは、無目的な形相を帯び、それゆえにかえっ て放浪という動向をわれらに予感させる。それは、生鮮な物Jへの 帰家本能であり、発育と死を短絡させる物Jの記憶像である。この とき、腐敗の円環運動はルサンチマンとして物Jをめぐり、また死 は物Jへの飽くことのない執着として理解される。 とまどうわれらもまた雄大な腐敗の風景である。