回転家族の食卓 1/2
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 回転家族の食卓




 蝿がえがく曲線の円心へむかって、テーブルは現象する。この多
角的な、縁辺の不明瞭なテーブルの不潔さかげん!
 腐敗する物Jは、ゆるゆると翼を伸ばしはじめた。飛び立つにし
ても、どこへ?
 蝿の無目的な飛行が択びとったテーブルの形態は、火災のごとき
ものであったために、無限な融通性を備えていた。食事をとる家族
のうしろ姿は、どれも火急でありながら、かつ、いまや生を断念し
たかのように動じない。かれらもまた蝿だからだ。
 腐敗する物Jは、テーブルの形態や蝿の属性とはかかわりなく、
いかなる手、いかなるまなざしをもはねかえし、むしろ積極的に潔
癖である。それは、絶えざる発熱、あれからこれへ、ここからそこ
への、色彩の移行、におい、かたちの変遷、退行のうちに、あの融
通性とは明らかに対立する独断の姿勢を保つ、誇り高き腐敗である。
 物Jの表情を、われらは、しばしばまのあたりにし、それを物J
のすべてであるかのように解釈するが、発熱から発汗への音階的過
程に捉えられ呑みこまれた結果の、われらの判断の愚昧さをこそ、
飛び立てぬ腐敗とみなすべきである。
 すなわち、《無表情》という表現が迫ろうとした表情のまえにあ
っては、われらは何者でもない。無として、なおかつ、《見る・見
た》という屈辱、むずがゆさ、嘔吐感を背負いこむ。
 だが、はたしてそれが事実だろうか。
 事実は断じてこのようなわれらの思い入れを許しはしないだろう。
嘔吐さえも、われらの慾望に根ざしているのだ。
 しかるに事実へのわれらのいとけない秋波は、それを《見ない・
見なかった》として、屈辱、むずがゆさ、嘔吐感をこらえる必死な
自己欺瞞に自らを幾重にも呪縛するのである。
 《無表情》が限りなく接近するところの表情が、腐敗する物Jの
一瞬の現象を示すにとどまり、あのテーブルの淫乱でさえある融通
性が蝿の属性にとどまるならば、それらに共通する限りのなさとは、