家族                                                         村嶋正浩

 

                   家 族

  

  


鈴木志郎康 黒田三郎 鮎川信夫……詩人にとって家族は追求すべき主題たり得たのか


 家族である。この愛おしくて悩ましくやっかいな生きものが家族である。

 週刊誌の見出しに、「マイケル・ジャクソン 今は悲しき「家族の肖像」」との言葉が踊り、父親であるマイケルと子供たちの幸せな家族写真が載っている。更には、遺言書の遺産相続人の中に、マイケルの父親の名前がなかったと報じられている。

 この家族というひとかたまりの人々、彼らの場合は、ファミリーと言う言葉を使うべきで、家族という日本語になじまないのかもしれない。国にではなくて、銃を各自が所有して自分で自分の身は守ると考える国の人々の家族と、身を守るべき銃を国に渡してしまって武装解除した日本の人々の家族では、社会的存在の意味が異なっているに違いない。つまり、家族を持つ覚悟の相違があるのかもしれない。

 国を信用しない、或いは頼りにしない生き方をするマイケルの国の人々と、国を頼りとして家族を考える人々では、家族への思いの基盤が異なっているのではないかと、ふと思ってしまう。

 

 家族を扱った記憶に残る映画には、思い出してみると、「誰も知らない」(是枝裕和監督)、「父帰る」(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)、「砂と霧の家」(ヴァデイム・パールマン監督)、「メゾンド・ヒミコ」(犬童一心監督)「空中庭園」(豊田利晃監督)、「エデンの東」(エリア・カザン監督)、「不抜けども、悲しみの愛を見せろ」(吉田大八監督)などがある。

 最近の作品ばかりではないのだが、変形した家族、壊れた家族、変質した家族など、いずれにしてもそれぞれがそれぞれの家族の形に依存しながら生きている人々が映し出されている。

「誰も知らない」では両親に見捨てられた子供たちが、家族の形骸を残した家で協力して暮らしながら離散していく映画であり、「メゾンド・ヒミコ」では父親が経営するゲイの老人ホームが家として登場し、その中での家族的な生活を作り上げようと努力して暮らす人々が映し出されている。

 壊れた家族を修復しようとする人々、壊れた家族の中でそれを事実として受け入れて生きようとする人々、今までとは異質な家族の形態の中に生きている人々、それらは様々な暮らしの形を示している。

 

 詩人という表現者にとって、家族とはどのような存在なのだろうか。どのように描かれてきたのか。更には、追求すべき対象として家族は主題たりえるのだろうか。最近切実に思うのは、地域社会の崩壊に伴って家族の崩壊があり、それを詩人達はどのように考えて描いてきたかである。

 「地域社会の崩壊に伴って」と書いたのだが、「家族の崩壊」との因果関係を考える時、果たして主な要因とする認識が正しいのかどうか、直接立証する資料を手元に持っている訳ではないが、そのように見える。

 私にとって「家族」を主題とした作品との衝撃的な出会いは、鈴木志郎康の詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』(一九六七年刊)においてであった。冷静に読めば内容それ自体は、日常の暮らしの日々が淡々と描かれているのだが、言葉の熱を帯びた過激さは、四十年以上も前の作品なのだが、今もなおその生々しい色彩を放っている。

 それ以後、『やわらかい闇の夢』(一九七四年刊)『見えない隣人』(一九七六年刊)『家族の日溜り』(一九七七年刊)『家の中の殺意』(一九七九年刊)などがあり、家族を凝視した強かな描き方を見せている。

 ところで、戦争体験者にとっての作品では、もっとも身近な他者である家族をどのような視点で書かれていたのだろうか。

 

 死のなかにいると

 僕等は数でしかなかった

 ・・・・・・・・

 戦争が終ったとき

 パパイアの木の上には

 白い小さな雲が浮いてゐた

 戦ひに負けた人間であるといふ点で

 僕等はお互ひを軽蔑しきってゐた

 それでも

 戦いに負けた人間であるといふ点で

 僕等はちょっぴりお互ひを哀れんでゐた

 酔漢やペテン師

 百姓や錠前屋

 偽善者や銀行員

 大喰ひや楽天家

 いたはりあったり

 いがみあったりして

 僕等は故国へ送り返される運命をともにした

 引揚船が着いた所で

 僕等は

 めいめいに切り放された運命を

 帽子のやうにかるがると振って別れた

 あいつはペテン師

 あいつは百姓

 あいつは銀行員

  

 一年はどのようにたったであろうか

 そして二年

 ・・・・・

 そして

 さらに不機嫌になって吊革にぶら下ってゐるのを

 誰も知りはしないのである

                       「死のなかに」

 

 太平洋戦争、第二次世界大戦、十五年戦争、様々な呼ばれかたをされているが、この戦争体験をした詩人達が描いた作品の中で、それは戦争体験であり同時にそれを引きずっての戦後体験なのだが、一番注目して今も心の底に沈んだまま残っていて、時々思い出したように浮き上がってくる作品は、この「死のなかに」(『黒田三郎詩集』ユリイカ一九五八年刊)であった。

 なお、「死のなかに」は詩集『時代の囚人』(一九六五年刊)の中にも収められていて、時代的には詩集『ひとりの女に』の前に発表されたものとして位置づけられる。因みに、『時代の囚人』に収められている作品は、新仮名遣いに改められている。

 黒田三郎は一九四二年に南洋興発蠅亮勸として南方のジャワに赴任となり現地で召集され、その奥地の農場で敗戦を迎えている。

 『黒田三郎著作集 第一巻 全詩集』(一九八九年刊)に添付された小冊子には、鈴木志郎康、鮎川信夫、飯島耕一、大岡信、平井敏彦、中桐雅夫、三好豊一郎が文章を載せている。

 鮎川信夫は、この三十年間(この文章は一九八〇年に『ユリイカ』に発表したもの)、一度も電話したことがないことを思い出して戸惑いつつ、一度だけ碁をして負けたことを書いただけで終わっている。小冊子の中では一番短い文章であるが、それはある種の黒田三郎という別の生き方をしてきた友人への、鮎川信夫なりの気の使い方なのかもしれない。

 黒田三郎の「死のなかに」は、鮎川信夫の「死んだ男」(一九四七年刊『純粋詩』)の描く世界とはまったく別の視点で書かれている。日々の暮らしの中に生活をして生きているものを、冷静に見据えた目で見ている黒田三郎とは異なって、鮎川信夫はもはや生きものではないものを対象にしている。あえて言えば、生きていない者を想像の世界に生かすことで、生きている実感を得ようとしたのだ。

 

 「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」

 Mよ、地下に眠るMよ、

 きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか

 

 この切実な思いにあった鮎川信夫の目は、戦友との密接な関係のなかに閉じており、Mに対する思いの深さにおいて生きている意味を問い、戦争体験を共有する戦後の暮らしの延長でMの苦しみを描こうとしている。その苦しみの中に生きることで、彼なりの敗戦後の生活の実感を得ようとしたのである。

 多くのひとに共感を与えたこの気分、生きている心地は、戦後の生活を始めるにあたっての多くの人々の支持を集めたに違いない。

 それに引き換え、黒田三郎の冷酷な目は、ペテン師はペテン師として戦前と戦後を同じように生きていくのを見据えて書いている。しかし彼はペテン師にさえなれないまま、酔っ払っても死ねないままの自分を見ていて、世間から見捨てられたように誰も知られず、今日も電車の吊革にぶら下がって生きている男を書いている。戦死したMではなくその男に、黒田三郎は切実に暮らしの中での共感をもって書いている。

 鮎川信夫は「死んだ男」を描き、思いを深めていくことで、性愛に満ちたと言えるほどの世界、「あなたの死を超えて」(一九五二年『荒地詩集』)にたどり着いたのである。

 黒田三郎の場合は、詩集『ひとりの女に』(一九五四年刊)へと辿り着くのだが、そこには最早だれも信じるに値しない世界の中で、敢えて言えば、彼には信じるに値するMの存在がなかったことによって、『ひとりの女に』は生まれるべくして生まれたのである。日々の暮しの中でお互いが切り離さて生きている人々に目を向け、それでもなお社会に連なろうとしたのは、直視して目に見たものを書くという詩の表現方法によったからである。

 木原孝一によれば、「黒田の詩が、三十年代の美学の影響をほとんど受けていない、という事実である」と述べ、驚きをもって見ている。恐らく「受けていない」という受動的なものではなく、能動的に拒絶をしたに違いない。

 比喩的に言えば、鮎川信夫は死者に魂を売り渡すことで死者の世界を凝視する方法を得たのであり、Mの存在がなかった黒田三郎は、同様の意味で死者に魂を売り渡すことはなかった。それによって、『ひとりの女に』更に『小さなユリと』の世界に辿り着くのである。

 Mが銀行員なのか、ペテン師なのか、百姓なのか、問うことなく鮎川信夫は、敗戦後の日々を詩人として生きたのである。

 

 ところで鈴木志郎康は黒田三郎をどのように見たのだろうか。「私自身が生活場面の中から詩を書く態度を持っていて、それが黒田三郎の詩の書き方に似ているところがあるので」と述べつつ、生きている意味を問うことを、日々暮らしている生活の中に問いかける手法に共感を寄せている。

 「性愛」という言葉を使って、『ひとりの女に』を読み解こうとしているのだが、具体的な内容として書かれているわけではないと述べている。重要なことは、「詩の中に自分の個人的で具体的なことを持ち込んだとき、性愛から出てくる生活が必然的に詩の中に流れ込んでくる水門をつくることになった」と述べていることにある。

 つまり日々の暮らしの中の具体的に家族を描くときには、「性愛」に触れることなしに通れないということである。

 

 


黒田三郎 オバマ大統領 高野素十 飯田龍太 摂津幸彦 金子兜太 森澄雄……それぞれの家族


 暮らしの中のひととひととの具体的な関係に視線の主軸をおいて書いたのが黒田三郎であり、その意味では鈴木志郎康も同様であった。黒田三郎が「死のなかに」で示して見せた社会に対しての視線は、日々の暮しに明け暮れている個々人の視点であり、その当然の帰結として詩集『ひとりの女に』(昭和二十九年刊行)にも貫かれていて作品は生まれた。

 因みに、この詩集の作品が書かれたのは、昭和二十四年に多菊光子と結婚した前後の年であり、下山事件や松川事件があり、中華人民共和国が成立し、金閣寺の焼失もあった激動の時代であった。

 なお、昭和三十年のH氏賞を『ひとりの女に』は受賞している。

 

 家族は性愛を主軸にしての生と死の連鎖の中に存在し続けている。家族は見知らぬ他人が出会い結婚し、出産、そして死に至る日々の暮らしの中に存在するのだが、厳密には一つとして同じものがなく様々な形として存在している。

 これが家族の理想の典型というものはなく、地球上の様々な地域で生活をする家族の人々の心の中に個別にあるにすぎない。実はこのことにおいて、ひとびとは多様な文化的な生き方の中で、自分の生き方に応じて、個別に享受しているのである。

 アメリカのオバマ大統領が飼い犬を含めての家族を大衆の前に示し、理想的アメリカの家族の一員として振舞いつつ、職務をはたしているのを国民に見せている。例えばどのような犬を飼うかが話題になり、それがあたかも重要な職務の一環としての印象を与えつつよりよい家族が喧伝されている。

 家族の絆と幸福を追求する振る舞いは、そのまま彼の職務執行の様々な場面でひとびとに思い出させて、国家権力の支持に彩りを与え続けるのである。

 日本においてはそのような振る舞いは、恥ずべきことであるとする時代が長く根強く続いてきた。「家」の秩序を構成し担う人々としては存在したが、「家族」のひととひととの関係は隠されたままであった。ひとびとは家族の一員としてではなく、「家」の秩序を守る役割を振舞い続けたのである。

 

 平成十二年の俳誌『俳句』の五月号では、「肉親をどう詠むか」を特集していて、「父」「母」「妻」「夫」などを詠んだ作品をとり上げている。

例えば「父」に関しての作品には、家族制度の「家長」としての父の色合いの強いものと、明らかに「家族」の一員としての父、等身大のひととして詠んだものとの差が読み取れる。

 厳密にはそれぞれの作品にはっきりと分別出来るものではなく、両方が微妙に入り混じった作品として存在しているものの、視線の向け方にその差を感じることが出来る。

 例えば男は父親を持つ息子としての存在であり、長じて息子を持つ父親としての存在になるのだが、「父」を詠むことの意味は、家族制度の「家」の長としての父親と、「家族」の父親との裂け目に向けることに他ならなかった。

「家」の構成員は家長の強い統制下にあったのだが、その「家」の長としての父親と、等身大の家族の中の一員としての父親とは同じ生身の男なのだが、戦前に家族の一員を生きた人々の「父」に対する思いは、その裂け目を見つめることで優れて表現者たり得たのである。

 とは言え、娘が父を詠んだ作品と、息子が父を詠んだ作品は明らかに異なっているように見える。当然娘も父親を家長として見て生きているものの、敢えて言えば、家族の親子関係の個的な視点で見ているのに対して、息子は父親を「家」の秩序の中の家長としてのみ見ていた、そのように見えたのである。

 

 端居してたゞ居る父の恐ろしき   高野素十(明治二十六年生)

 

 夏の夕暮れの涼しい縁側の風景であろうか、父が側でくつろいで夕涼みをしているのだが、そばに居るだけで恐ろしさを感じているのである。父親がうっとおしいのではない、ただ居るだけで恐ろしいと思ってしまう父親なのである。ここには家族の親子関係の立ち位置が色濃く示されている。

 ここでの「恐ろしき」という言葉の重さは、強固な家族制度の中での恐怖としては、私はほとんど理解の外に居る。つまり、家族制度が基本的に壊れた時代に生きている私にとっては、「うっとおしい」と同じ意味としての「恐ろしき」に過ぎないからからである。

 生死を決定する「恐ろしき」ではないからである。高野素十は父親に凝視されているのである。もちろん父親に対して畏敬の念もこの「恐ろしき」の中に当然含まれている。ここには家族の一員としての等身大の父親を見ている痕跡はない。

 

 手が見えて父が落葉の山歩く    飯田龍太 (大正九年生)

 

 ここでは前をすたすたと歩いている父がいる。二人の間には狭めることが出来ない距離があり、触れることが出来ない手が見えるのである。父親は家長としての姿がありながら、その距離を縮めようといたい息子がいるのである。家族としての父と家の長としての父に対する思いが込められている。ここには高野素十の場合とは異なって、家族としての父親に対する思いが垣間見られる。

 

 野を帰る父のひとりは化粧して   攝津幸彦 (昭和二十二年生)

 

 この父はなぜ化粧しているのだろうか。俳句は十七文字の情報を全てとしているので、読み手は「野」を「帰る」を「化粧」をそれぞれの経験や知識に基づいて読み取らねばならない。

 ここではっきりと言えることは「家」の長としての父親の姿はない。摂津幸彦は「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」「南国に死して御恩のみなみかぜ」という作品を詠んだ俳人である。

 戦後生まれにも関わらず、一見古き時代の「家長」としての父親を仮構して詠まれているのだが、美的な感性の中でのみ生きているに過ぎない。

 

 われを呼ぶ父よあかるく蛭と泳ぎ  飯島晴子(大正十年生)

 父恋の空へくちなは抛りけり    柿本多映(昭和三年生)

 海鳴やこの夕焼に父捨てむ     奥坂まや (昭和二十五年生)

 

 これらの女流俳人の描く父親は、家族のなかの男としての父親のに視点をおいて見ている。飯島晴子や柿本多映は当然家族制度に縛られた時代にあって、家長としての男を見ているはずなのであるが、父親を等身大の生きものとして見ているのである。

「蛭」や「くちなは」と同じ生き物の水準で父を見ているのである。それは必ずしも父の存在を貶めることではなく、思い焦がれる思いの表現として存在している。奥坂まやの「捨てむ」の意味も同様である。

 俳人金子兜太、佐藤鬼房も黒田三郎と同じ大正八年に生まれている。

 

 霧の村石を投らば父母散らむ   金子兜太(大正八年生)

 ひばり野に父なる額うち割られ  佐藤鬼房(大正八年生)

 

 これらの作品も明らかなことは、自分と等身大の父親を見る視線ではないことである。高野素十の「恐ろしき」を含んだ視線が垣間見られる。

 

 ところで大正八年生まれの黒田三郎は、詩集『ひとりの女に』によって家族の闇の世界へ、性愛を主軸とした生と死の連鎖の世界へ入り込んでいった。

 

 それは

 信仰深いあなたのお父様を

 絶望の谷につき落とした

 それは

 あなたを自慢の種にしていた友達を

 こっけいな怒りの虫にしてしまった

 それは

 あなたの隣人達の退屈なおしゃべりに

 新しいわらいの渦をまきおこした

 それは

 善行と無智を積んだひとびとに

 しかめっ面の競演をさせた

 何というざわめきが

 あなたをつつんでしまったろう

 とある夕

 木立をぬける風のように

 何があなたを

 僕の腕のなかにつれた来たのか          「それは」

 

 詩集『ひとりの女に』の最初の作品は「それは」であり、ひとりの女にまつわるこの物語の始まりを語っている。詩集には11の作品が収められているのだが、ひとりの女との愛の生活を書き収めた詩集なのだが、最初の作品としては異様な内容である。

 最初の登場人物は、絶望の谷に突き落とした「あなたのお父様」である。ひとりの女との出会いによって、「僕の腕の中につれて来た」ことの意味をここで語っている。なによりもまず最初に、不幸に落とし入れた人々について触れて書いているのである。

「生いたち」によれば、「父は海軍士官で六尺もある堂々たる体躯だった。海軍兵学校の同期では最も相撲が強かった」と述べている。男の子が台所に顔を出すことを戒めたり、風呂に入るのも父が先で次は男で、女は最後であることを不思議とは思わなかった時代を生きていた。

 ひとりの女の父親を絶望の谷に落としたと黒田三郎は思ったのだが、そこには金子兜太や佐藤鬼房が抱え込んでいた父親像が色濃く感じられる。

ひとりの女と出会い愛し合い共にくらすという一連の行為の中で、つまり家族をつくるという性愛の中で、彼女自身の生れ育って培ってきた家族を見据えた時、黒田三郎の心に真先に飛び込んできたのは、家長としての彼女の父親ではなかったのか。

 ひとりの女との性愛の世界を謳い上げるのではなく、ひとりの女との直接的な性愛の関係に目を向けるのではなく、彼女の生まれ育てられた家族の長たる父親に向けて、更には友人たちにまず触れて書くことでこの詩集が成立しているのは、興味深いものがある。

 

 俳人森澄雄も大正八年の生まれで、同じ頃の昭和二十三年に結婚しているのだが、黒田三郎が詩集『ひとりの女に』の作品を発表した頃に、次のような作品を発表している。

 

 枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ

 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり

 姙りて跼みて梅雨のかまど口

 七輪あふぐ女の尻を枯野に向け

 

 ここには明らかに性愛に満ちた家族の中の妻が描かれている。黒田三郎とは異なって、等身大の家族の一員としての妻に直接、誰にも邪魔されずに、目を向けている。妻という生きものの身体が具体的に書き示されている。性愛の対象のひとりの女に直接視線を向け、過不足なく言葉を駆使つくそうとしているのである。勿論同じ年に生まれ、ほぼ同じ頃に結婚したからと言って、同じ視線で対象物を見るとは限らない。

 森澄雄の句集『雪櫟』(昭和二十九年刊)は、彼の性愛に満ちた新婚生活を描いた作品集であるが、それでは黒田三郎の詩集『ひとりの女に』は、何を描こうとしたのだろうか。

 

 

 


「男と女」の、さらに言えば「男と男」の性愛の関係に直接踏み込んだ鮎川信夫と、あくまでも社会的な位置づけの中で俯瞰してみせた黒田三郎との表現の差。


 

 黒田三郎は絶えず俯瞰する目で世の中を見ていて、その中に生活をする自分を観察する方法で作品を書き続けてきた。従って、最愛のひとりの女を描くときも、直接向き合う形での描写ではなく、俯瞰した世界の中での二人の関係を位置づけるという視点で示した。

 

 引揚船が着いた所で

 僕等は

 めいめいに切り放された運命を

 帽子のやうにかるがると振って別れた

 あいつはペテン師

 あいつは百姓

 あいつは銀行員

 

 作品「死のなかに」でこのように人々を書いた黒田三郎である。ここではそれぞれの人々の暮らしを社会的に位置付けて、明らかに俯瞰して見て書かれている。「百姓」、「銀行員」、同様に「ペテン師」であったりと、彼らはそれぞれがそれぞれの暮らしを営む戦後の社会に放り出されたのだが、ひとりの女に出会った男も、同様な意味で社会的な位置付けで書かれているのだ。

 この視点は詩集『ひとりの女に』の世界にも貫かれている。二人の間の性愛に満ちた思いも「僕」が直接女に向き合うのではなく、二人の関係性もあくまでも俯瞰され描写されているのである。

 「百姓」でも「銀行員」でもなく、「ペテン師」でさえもない駄目な男として、黒田三郎の「僕」はひとりの女に出会うのである。

 「僕」という言葉は、黒田三郎が直接に自分自身で語る主体ではなく、あくまでも俯瞰された世界に登場する、観察された「僕」に過ぎないのである。

 ひとりの女に出会いお互いに愛を育み結婚するのだが、確かにこの作品は、その体験に基づいて書かれている。従って、「僕」は黒田三郎の分身であり、むしろそのものと言うべき男であるはずだ。

 しかし、ここに登場する「僕」は黒田三郎そのひとではなく、作者によって観察された「私」であり、その貧乏で失うものがない「私」を中心に据えた世界であり、その男とひとりの女との出会いの世界が書かれているのである。

 

 もはやそれ以上何を失おうと

 僕には失うものとてなかったのだ

 河に舞い落ちた一枚の木の葉のように

 流れてゆくばかりであった

 ・・・・・・     (もはやそれ以上)

 

 五百万円の持参金付の女房をもらったとて

 貧乏人の僕がどうなるものか

 ピアノを買ってお酒を飲んで

 カーテンの陰で接吻して

 それだけのことではないか

 美しくそう明で貞淑な奥さんをもらったとて

 飲んだくれの僕がどうなるものか

 ・・・・・・・     (賭け)

 

 ここには観察された貧乏人の「僕」と、同様に観察されたひとりの「女」がいる。貧乏人の「僕」がいて、五百万円の持参金付の「女」と一緒に暮らし始めて、ピアノを買ってお酒を飲んで、カーテンの陰で接吻して、それだけのことではないか、と思う「僕」が黒田の描く「私」なのである。

 ここでは接吻も性愛としてのものではなく、ただそれだけのこととしての、つまり彼が女になしうる唯一の行為としての位置付けで描かれている。貞淑なおくさんという言葉の意味の広がりの中で、そのぎりぎりの限定された意味の光景として、カーテンの陰でなされた接吻なのである。戦後の新しい生活がはじまった夫婦のあるべき姿として書いたのである。

 「僕」がその時どのような心の時めきをしたのか、黒田三郎のいう貞淑な妻がどのような振る舞いをしたのか、性愛としての接吻には踏み込むことなく終っている。それは慎みというものなのだろうか。

 「飲んだくれの僕」という表現は、観察されたひとりの男である「私」であり、カーテンの陰で接吻をする「僕」も同様なのである。黒田三郎が女に直接向き合ったのではなく、観察された「僕」を通じて間接的に向き合ったのである。五百万円の持参金付の「女」との生活の中での戸惑いと喜びは、観察された暮らしの記録のように書かれている。

 それは必ずしも感動を殺ぐことを意味しない。いずれにしても、カーテンの陰で接吻をする、そのことがこの詩集の世界の象徴的な意味として、性愛としての世界に踏み込まずにいたことにより、より新鮮に当時の新婚生活のしるしとして読まれたからである。

 この意味では、鮎川信夫が直接男や女に向き合ったのとは、対照的な世界である。「地下に眠るM」、「うつくしかった姉さん」、「橋上の人」これらの人々への眼差しは、黒田三郎と同様に「僕」と書かれているとしても、鮎川信夫の場合は直接お互いに向き合っているのだ。人々と向き合う時の心の時めきも戸惑いも含めて余すことなく、表現しようとして書かれている。

人間関係に介在する性愛に否応なく目が向けられて、表現せざるを得ない方向へと書く行為が進められていった。

 「男と女」の、敢えて更に言えば「男と男」の性愛の関係に直接踏み込んだ鮎川信夫と、あくまでも社会的な位置づけの中で俯瞰してみせた黒田三郎との表現の差は、明らかに見てとることが出来る。これはあくまでも表現上の差異であって、優劣について述べているのではない。

象徴的に言えば、カーテンの陰での接吻という性愛の在り方は、黒田三郎の思い描く戦後の家族関係の意味付けであり、鮎川信夫は決して向うことがなかった世界である。

 黒田三郎は社会的に観察者された「僕」を通じて家族を見ていたのであり、新たに作られた家族を表現の場に取り込むことが出来たものの、鮎川信夫のように性愛を、更に言えばエロスとタナトスの両方の衝動で突き動かされる「僕」の登場はなかった。

 酒のみである、何の取り得もなく貧乏である、生きるのに不器用である、そのような男の社会的な位置を観察しながら、『ひとりの女に』の世界は成立している。直接的な性愛の関係での、女と向き合った時の喜びや悲しみ、或いは戸惑いは抜け落ちている。黒田がそこに踏み込むことを性格上躊躇しているからではなく、彼の書く方法から生じているのである。

 

 僕は待っていたのだ

 その古めかしい小さないすの上で

 僕は待っていたのだ

 その窓の死の平和のなかで

 

 どれほど待てばよいのか

 僕はかつてたれにきいたこともなかつった

 どれほど待つても無駄だと

 僕はかつて疑ってみたこともなかった

 

 突然僕はわかったのだ

 そこで僕が待っていたのだということが

 そこで僕が何を待っていたのかということが

 何もかもいっぺんにわかってきたのだった

 

 けしに吹くかすかな風や

 煙突の上の雲や

 雨のなかに消えゆく足音や

 恥多い僕の生涯や

 

 何もかもいっぺんにわかったとき

 そこにあなたがいたのだった

 パリの少年のように気難しい顔をして

 僕の左の肩に手を置いて

 

 

 この前年に結核を再発して東村山保生園に入院し、妻は子供を預けて働くことになると経歴にある。更に左肺上葉切除手術を受けると書かれているからには、家族の日常は激変する日々を送っていたはずである。

この作品から見えることは、観察された私の「僕」ではなくて、日々悩む私の「僕」の傾向が強くなっているのである。あなたと呼びかけているひとりの女に「僕」は向き合い、同時に黒田三郎も向き合っているのである。

この立ち位置と視線は、そのまま詩集『小さなユリと』に育っていくのである。ひとりの男と女が出会い一緒に暮し始めて、昭和二十六年七月に長女「ユリ」が生まれる。この作品は詩集『ひとりの女に』とは異なって、直接娘のユリと向き合うなかでの日々が書かれている。

 

 そこにお前は立ちつくす

 森の上の美しい日没

 その異様なしずかさのなかで

 お前は思う

 もはやもとにかえることはできない

 道化たしぐさも

 愛想笑いも

 もはや何ひとつ役に立たない

 虚勢をはることも

 たれにそうせよと言われたことでもなかった

 笑うべき善意と

 卑しい空威張り

 あげくの果は

 理由もなくひとを傷つけるのだ

 お前を信じ お前の腕によりかかるすべてのものを

 おもうことのすべては言い訳めいて

 いたずらに屈辱の念を深める

 屈辱 屈辱のみ

 自転車にも轢かれず

 水たまりにも落ちず

 ふたつの手をながながと垂れ

 そこにお前は立ちつくす

 ああ 生れてはじめて

 日没を見るひとのように

 

 この作品は詩集『小さなユリと』の最初の作品「美しい日没」である。「ささやかな私詩をあつめて詩集をあんだ」と、あとがきに書いているが、ユリが書いたと思われる父親の絵が表紙になっている。

 黒田三郎はひとりの女ユリに真正面に向き合って、語りかけている。観察された「僕」を通じてではなく、直接目の前の相手の思いの中で、喜び悩み狼狽する男が登場する。

 子供のユリとの二人だけの世界は、妻の光子の結核の治療の為の入院により始まり、しばらくして黒田三郎がバスに轢かれて、脳震盪で打撲による入院で突然終わる。それにより光子は退院を余儀なくされてしまう。

 あとがきによれば、ボーナス日にユリの衣類の買い物をして、一杯のんでいい機嫌で歩いていてバスに轢かれたと書いている。空部屋がないので「産婦室十号」に担ぎこまれたのだが、その病室名を題にした作品を書きはじめたのだが、書けないままでいるとも記している。今となっては笑い話にするしかないのだが、と思っている黒田三郎がいる。

 家族とは厄介ないきものである。愛おしくもあり、鬱陶しくもあり、そして壊れやすくもある生き物である。

 

 俳句の世界で妻を詠んだいくつかの作品を、それも性愛にみちた作品を上げることが出来る。

 妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る   中村草田男

 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり   森澄雄

 つめたよと妻に言わるゝ手足かな  渡辺白泉

 妻の帯たぐりたぐるも茅花の風   橋寮

 

 これらの作品はすべて妻の身体に触れて書かれている。あるいは触れていることを想像させる内容が書かれている。この作品は男が一方的に思いを述べたに過ぎないのかもいれない。

 いずれにしても、家族について表現しようとすれば必ず生と死、エロスとタナトスに触れざるを得ないのである。

 私は鮎川信夫の性愛に満ちた作品に惹かれながらも、黒田三郎の可能性を考えたのは、繰り返しになるが、「死のなかで」を読んだからに他ならない。その延長に詩集『ひとりの女に』が生まれたことである。

 

 

 


男には家族から期待され、それを刷り込まれて生きた時代があった。時代は移り、男は何も期待されない自由を手に入れた。


 

 家族について書かれた作品としてすぐに思い浮かべるのは、島尾敏雄の「死の棘」(1960年刊)である。病んだ妻との日々の葛藤を、克明に綴ったものである。広い意味では、深い愛と絆で結ばれた夫婦愛の物語として括ることも可能だが、眼を背けたくなるような暗澹たる夫婦の戦いの日々が語られている。現実の島尾敏雄夫婦の日々の出来事を素材としながらも、当然なことだが、様々に味付けや肉付けされた物語として構築されている。

 

 涙も枯れ果てる程の絶望と生きる事の凄さ、男と女の共に暮らすことの生々しい絶望と、不思議な諦観にも似た安らぎを読者は得ることが出来る。余計な話だが、夫婦の戦いに巻き込まれた子供は、たまったものではない。実生活の彼の息子はその忌まわしい思い出を語っている。

 

 家族を作らずひとりで生きる事はさびしく辛い、けれども結婚して家族を持つこと恐ろしく煩わしいのではないか、それが三十年以上も前に「死の棘」を読んだ第一印象だった。

 最近の調査では大切にしたいものの一位は家族で、そこに安らぎを求めている人が多いと聞く。しかし嘗ては、家族は安らぎの場としてあったことはなく、子供は親の前で緊張してピリピリしていた。家族は子々孫々の為に、家の資産を増やし、家の名を上げるための社会的な基盤のひとつの単位にすぎなかった。男はそのように家族から期待され、それを刷り込まれて生きた時代があった。時代は移り幸いにして現在は、男は何も期待されない自由を手に入れたのである。

 

 高野素十の句に「端居してたゞ居る父の恐ろしき」がある。夏の夕暮れに縁側で夕涼みをしているのだが、傍に父がいるだけで、ただただ恐ろしくて緊張してしまう自分を描いている。程度の差はあるものの、高野素十の思いは決して例外ではなかったのである。

 ただ注意しなければならないのは、「恐ろしき」の言葉の中には単に狭く恐れていることのみが語られているのではなく、夏の涼しい風あたりながら、縁側で父と一緒にいる思いの中身の意味である。家の中で家族のもつ秩序の意味を踏まえての「恐ろしき」であって、父とともにある秩序の現場での、家族を心のよりどころとして示しているのである。「恐ろしい」という思いにありながら、その縁側に留まっている高野素十の父への思いである。

 

 そこには人為的に組織化された秩序という思いではなく、自然の摂理としての秩序の思いが、基本的にあったのではないか。

 いま私たちは家族の崩壊が社会的に起きている現実を見ている。家族は壊れることがある、そのような現実を突き付けられている。人間以外の様々な生きものが子供を産み育てることを目にする中で、それは人間の家族とは異なったものであるとは言え、そこに典型的な家族愛の姿として擬人化して見て来た。

 このような時代にあって、島尾敏雄が精神を病んだ妻に真摯に向き合い、徹底して付き合ったことを、再び不思議な感動をもって読み返すことが出来る。

「死の棘」の世界では女性問題というありふれた些細な、それでいて決定的に重大な問題で妻は心を病み、遂には精神に異常を来たして入院しなければならなくなる。それは妻を愛する夫の責任の問題として、彼は妻の怒りに堪えて日々の暮らしを受け入れる。遂には病院で一緒に暮すようにと物語は展開する。島尾敏雄はこのような過酷な、まったく展望のない日々を何故克明に書こうとしたのかである。

 彼は昭和十九年十月に海軍特別攻撃隊第18震洋隊指揮官となり、奄美群島加計呂麻島で、敗戦間際の日に魚雷艇の「特攻戦出撃用意」の命令が下り、そのまま戦後の日常生活に放り出される。この出来事は小説「出発は遂に訪れず」に書かれた。

 小説「死の棘」は島で知り合った女性との結婚生活、それも心を病んだ妻との葛藤の日々を描いた小説として登場して、言わば妻を育てた加計呂麻島の自然が戦争で病み、その怒り化身としての妻と向き合ったのである。

 このような意味からすれば、戦後の島尾敏雄の生き方への日々の問いかけとして、責任を引き受ける手立てとて書かれたはずであり、妻の過酷な怒りは、豊かな自然の怒りとして絶えず日々の暮らしに襲い掛かったのである。 いま私たちはそのような家族から遥か遠くの場所で暮している。「死の棘」の主人公のように振舞うことが出来ず、過酷な怒りに堪えることが出来ない時代にいる。むしろ耐える基盤をもう持ち合わせていない暮らしの現場にいる。

 

 再び鈴木志郎康の登場である。詩集「家の中の殺意」(1979年刊)は、私にとってはその問いかけに答えるものとして、改めて読み返している。

当時の鈴木志郎康は会社を辞め、家を新築していて、自分の生活に即した詩をかくようになっていたと述べ、だがこれからはそのような詩を書かないようにしたいと、「あとがき」で考えを明らかにしている。詩のあり方として、決定的な思いが語られているが、それは詩が力をもつことへの懐疑的な思いである。

「詩というものが、現実的な力となるもののように誤解され始めていることに対して、否定的な態度をとることではないかと考えられる。そんな詩を書いている奴など、どうしようもない存在だと思われるところへ押し進めるには、どういうことばを実現すればよいのか、ということをこれから考えようとするところに立っている」このよう書いて、「あとがき」は終わっている。

 鈴木志郎康には彼固有の日々の暮らしがあり、それは私たちと重なる部分は当然あるはずである。だが言葉での表現する暮らしのあるべき姿としては、何か力を持つことへの懐疑的な態度を持とうとしているのである。

 

 壁の一辺が十メートル、高さが三・五メートル余り

 他の壁の一辺が五メートル

 その上に四十五度の三つの斜面が屋根である

 その内部に空間がある

 その空間の頂点までは床から八メートル余りある

 そして、四十五センチ角のコンクリートの二本の柱が立ち、同じ四十五セ  ンチ

 角の露出した梁を空中で支えている

 この空間を

 私は所有した

 その空間につくねんと坐り

 昼間は巨大な梁を見上げては気持よく過しているが

 深夜

 闇がこめられてくると

 微小な音に気を取られて

 四つの部屋から部屋へ音のもとをさがし求めて歩き廻り

 置き忘れ消し忘れられた

 小さなラジオの

 絶命間際の声を

 つかまえて

 切る     

               「新しい家」より

 

 家の中にいては

 汚れた下着はとりかえる

 風呂に入って垢をおとす

 そして、おまえは洗濯する

 洗濯した下着を太陽に干しているおまえの姿に

 感動してしまう

 両腕を上げている

 おまえの肩から腋の下辺りに

 欲情を感じるという以上の、頭の中で崩れて行くものを感じるのだ

 昨夜は昨夜で

 花火に火をつけて草多を喜ばせていたが

 閃光がおまえの頭を浮き上らせ

 印象に残った頬の辺りにも

 花火を持つ指先の辺りにも

 行くべき道をかえり道に

 私は何もいらないという気になったりするが

 じきにまた詩を考えたり

 書く言葉を追っている

 家事に時間を取られて不機嫌になったおまえがそこに立っている

 笑ってよ、真理

                    「妻の不機嫌」より  

 

 子供はどこでも遊ぶ

 どこへでも物を持ち運ぶ

 何んで次から次へと散らかすの、

 元の場所にしまいなさい。と私は云う

 子供の心の中には

 自分の存在の排撃を素早く感じて

 殺意が生まれる

 妻は妻で思い通りにしたときの子供の頭を撫でているが

 そこにも、両者の

 抹殺しようとするピストルの撃ち合いが

 火を吹いているのだ

 家庭の中では、このようにして

 殺意は日常である

 私は子供を殺せるか

 私の書棚がたたきこわされたら

 私は激怒するだろう

 妻の肉体が傷つけられたら

 私は激怒するだろう

 私は子供を殺せるか

 子供の首を絞めて

 苦しみ、もがく姿を

 見続けられるか、苦しむ姿に

                                                            「家の中の殺意」より

 

 この幾つかの作品を読めば、詩の言葉が力を持つことに、鈴木志郎康が逡巡している姿を思い浮かべることが出来る。それでもなお家族について書かずにはいられない作者の思いが読み取れる。

表現される言葉が力を持つことは、表現者にとって望ましいことである。しかし彼はそのことによって書く現場から追放されるという力を受けてしまう。

 我々は日々様々な家族の形の中で暮している。高野素十の世界は残念ながら、当然ながらというべきなのかもしれないが今や存在しない。その中で各自が自分の家族の形を考えていくのは当然としても、表現者として、それは生きるものすべては表現者であるという意味は当然として、さしあたって言葉で詩を作るものにとって、家族を表現することの意味を、考えずに過すことが出来ない時代にいる。つまり家族は揺るぎない存在ではないということである。

 家族の一員が愛情を抱くにしろ、殺意を抱くにしろ、家によって強固に強いられ存在すると考えていた家族の縛りが解き放たれたのである。

鈴木志郎康は2008年萩原朔太郎賞を詩集「声の生地」で受賞している。この詩集では、「自分の人生」を「記憶の書き出し」としての試みを述べているのだが、詩集「家の中の殺意」に見られた発想はここにはない。現実に向う時間軸が変わってしまったのだ。

 どちらの詩集がより優れているのか、という問いを発することが出来ない。むしろ出来ないと言うより、今やその問い自体が無意味なのかもしれない。

 更にいえば、家族の意味を考えてくる中で、詩が存在する基盤そのものが崩壊してしまっているのではないかと、別の言葉で言えば、鮎川信夫の「死んだ男」に始まる戦後という時代が、やっと終わったのではないかと思うのである。

 それは楽観的に見れば、私にはまだ見えないけれど、新たな詩がうまれてくる始まりなのかもしれない。

                          −完―


●「詩のホスピス」はこの稿を以って終了します。編集