詩のホスピスより 文末に摂津幸彦略歴←文末へ

 

攝津幸彦は昭和二十二年の兵庫県の生まれで戦争体験はない。作品に登場する「満蒙」「満州」等の示す場所も現実に存在せず、

「聖戦」「皇軍」という言葉も最早生活上の実体のない言葉の一つであった。

 

 

 

村嶋正浩

MurashimaMasahiro

 

 

俳人攝津幸彦の生きた時代

 

 

 

 

 

 

                              1吉本隆明、鮎川信夫、清岡卓行、大岡信、天沢退二郎、吉増剛造、長田弘、清水昶、安東次男、富岡多恵子、谷川俊太郎、荒川洋治、入沢康夫、堀川正美、そして攝津幸彦

 

 

 昭和四十六年十二月号の詩と批評の雑誌『ユリイカ』にて、「戦後詩の全体像」の企画があり、戦後二十五年という時期あって現代詩の特集号であった。共同討議「戦後詩の全体像」では、吉本隆明、鮎川信夫、清岡卓行、そして大岡信が、「現代詩の主題を追う」では、天沢退二郎、吉増剛造、長田弘、清水昶が発言している。

更に「戦後詩への愛着」というテーマで十数人が文章を寄せているのだが、この企画に気乗りがしないとして別の視点から書いているのが、安東次男、富岡多恵子、谷川俊太郎である。安東次男は、「戦後詩ということばも、そろそろこの辺で廃語にしてもよいと思うから、ユリイカの歳末号でその回顧再検討をやりたい」との要請があったと述べつつ、「詩を書かぬの弁」を書いている。富岡多恵子も「戦後詩」という言葉に疑問を提示して書いている。

 

コトバには、まだゲイジュツがのこされているらしいのでおもしろいのである。しかし、コトバのゲイジュツを食べつくすときに、ほんとうはもう少しおもしろくなるのかもしれない。戦後の詩は、文字の詩、活字の詩である。それがもうちょっと、声の詩、心臓の詩、詩なんてどうでもいい詩になると、さらにおもしろいかもしれない。コトバですることがなくなったところで、おもしろいことが起るかもしれない。まだ文明はコトバを絶滅させてはいない。

 

更に、谷川俊太郎の発言は出色である。

 

明治維新と、第二次大戦における敗戦というふたつのできごとを比べて、そのどちらがより深く私という人間の形成にかかわっているかと問われれば、私はためらうことなく前者を答えに択ぶ。明治維新を私は体験していない、敗戦を私は体験している。にもかかわらず、敗戦よりも、維新のほうが私には切実に感じられる。……たとえて云うと敗戦は私には道路の上の大きな水タマリのように感じられる。歩いてゆく私はどうにかそれを越えられる。が、維新では道路は大きく決潰している。私は途方に暮れる。道路そのものが全線にわたって、今もなお(工事中)であることは云うまでもない……。

 

続けて「戦後詩」という言葉は詩人のものではなく、古めかしくジャーナリストの言葉でしかないと断言する。

戦後詩の世界に大きな影響を与えた「列島」「時間」「歴程」も、二三の例外を除いて「荒地」の作品さえも理解の外にあったと言う。彼の発言の注目すべき点は、唯一言葉の問題を歴史軸の視座において発言したことにある。彼をとりまく言葉、理解の外とした詩作品の言葉、それらが身体に触れてくる異質な感じに対しての発言であった。

 谷川の作品の時代的な意味は、題名の通り『二十億光年の孤独』(昭和二十七年刊)という発想に端的に示されている。単に郷土、国、更には地球という地平を越えた視座に基づき、あくまでも「個」から発せられて、ひとが「個」として存在していることを前提の「人類」であり、このような詩人の孤立した言葉で支えられている。   

世界を示す身体としての言葉は、戦争体験を引きずっていないという意味に於いて孤立した位置にあった。別の見方をすれば、戦後の新しい国家体制の下に、「個」に解体されて行く人々の言葉をいち早く宿した作品だった。

昭和四十三年に詩集『旅』を世に出しているが、作品「鳥羽 1」では、「何ひとつ書く事はない/私の肉体は陽にさらされている/私の妻は美しい/私の子供たちは健康だ」と書かれている。彼は世界に向けての最初の宣言のように、「書く事が無い」と言い、「妻も子供も健康で美しい」と言葉で示している。

「書く事が無い」との言葉は、他人には贅沢にも詩人が語る諧謔に満ちた発言に見えるが、まさしく書く事が無いとの言葉の意味そのままで、世界に向けて最初の一歩を踏み出したものとして書かれている。

 

別の視点で言葉の世界を切り開いたのが、「娼婦論」(荒川洋治 詩集『娼婦論』昭和四十六年刊)、「皇国前衛歌」(攝津幸彦「俳誌「俳句研究」昭和四十九年二月号)であった。谷川俊太郎は昭和六年生まれで、大岡信、入沢康夫、堀川正美も同年である。なお、攝津幸彦は昭和二十二年生まれで、荒川洋治は昭和二十四年生まれである。

摂津幸彦は昭和四十八年に第一句集「姉にアネモネ」を刊行して世に出たが、平成八年に第七句集『陸々集』を刊行して早々と人生を閉じた。享年四十九歳だった。

 

姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ

首枯れてことりこ鳥子嫁ぐかな

次の世の人体白き縄跳びす

くじらじやくなま温かき愛の際

千年やそよぐ美貌の夏帽子

濡れしもの吾妹に胆にきんぽうげ

 

読めばすぐ分かることだが、もはや日常の言葉の意味としては、世界の輪郭さえも読み取ることが出来ない。別の見方をすれば、読み手のあらゆる想像力を駆使して、自由に遊ぶ事のできる世界であり、それが最大限許される世界として書かれている。「千年」に、「そよぐ美貌」に、「夏帽子」に、各自が想像した思いをそれぞれに託して、遊ぶことが可能となった。つまり、作者と読者の従来の関係は、これらの作品では壊れてしまっているのである。           

                                   

 

                           
2攝津幸彦は、意味を欠いた世界、あるいは立ち位置の不安定な世界を描いた。それは危うくもようやく俳句の世界に留まっているように見える作品である。

 

 

 攝津幸彦が注目されたのは、小林恭二の言葉を借りれば、「誰もが息を呑み、前衛俳句に新しいプリンスが現れたことを確信した」とある。その俳句は、俳句総合誌『俳句研究』の企画による「第二回五十句競作」(昭和四十九年)において第一席を得た作品を指している。

編集長をしていた高柳重信が新しい才能を世に出すべく、独断で企画して発表するコンテストであった。雑誌に発表されたのは三十句のみであるが、「鳥子幻影」と題されていて、その中の作品は次のようなものである。

 

 幾千代も散るは美し明日は三越

 南国に死して御恩のみなみかぜ

 満蒙や死とかけ解けぬ春の雪

皇軍や砕けし玉をねぶる馬

極月透く満洲の耳蒙古の耳

南京の香れる花にも雌雄かな

 若ざくら濡れつつありぬ八紘

 川に落ち山に滑りて戦地とす

国語涸れ北支の月夜しぐれかな

 

同じ雑誌の号に「皇国前衛歌」として二十句を書いているが、作品の発想の視点は「鳥子幻影」と同じである。

 

滅び初む桃より見えし歩兵かな

 天つ日の腰を洗へば照る亜細亜

 ながらへて水辺にひとつ落下傘

 聖戦や太郎の袋にしづるる雪

 皇国や左手のごとく旗すすき

 生国千葉鶏卵問屋は水漬くかな

 

俳句は散文の文章のように、文章の意味の流れに沿って必ずしも理解してゆくのではなく、個々の言葉のもつ意味の飛躍や衝突、或いはずれなどの方法によって、少ない言葉で大きな世界を示そうとする表現である。

 攝津幸彦の俳句はそれらの方法を駆使しながらも、従来の安定した秩序の世界ではなく、意味を欠いた世界、或いは立ち位置の不安定な世界を描いた。それは有季定型の秩序の世界にあって、外に向う情の意思と、内に押し留めようとする知の意志との緊張関係の中で、危うくもようやく俳句の世界に留まっているように見える作品である。

 

俳人攝津幸彦にとっては、詩人谷川俊太郎の場合とは異なって、目の前の表現すべき言葉の世界としては、何よりもまず有季定型の確固たる規律の世界の言葉があり、自由な視線を遮り、行動する手足を縛るものとしてあった。

 これらの作品は言葉から意味を辿ろうとすると、たちまち立ち竦んでしまう。俳句はその表現形態の基礎である定型、それも五・七・五のたった十七文字の、文学としては最短の定型による表現であり、更に有季である。その規律の極度に不自由な表現形態、とは言え別の観点からすれば、この不自由であることを最大の表現の力として、生き存えてきたと言える。

 これらの作品に向きあってすぐ分かるのは、読み手の理解を拒絶していることである。意味ある言葉で書かれているものの、読み進めていくと、全体としては意味の欠いた世界として示されているのを思い知らされることとなる。作者が立っている位置も姿も定かに見えない。視線を向ける方向も場所さえも見定めることが出来ず、意味が辿れないままに言葉の中に放置される。

俳人正木ゆう子は著書「起きて、立って、服を着ること」で、『攝津幸彦全句集』を論じる中で、その表題を「地図にない場所」としつつ、「私はまるで地図にない場所に立たされたように、ひどく落ち着かない気分になる。それは普段確かな意味をまとってシャンとしている言葉が、ふいに見せるそんな生々しさのせいである」と記している。

 

「皇国前衛歌」でも分かるように、例えば登場する地名の固有名詞、「満蒙」「南京」「満州」は、かつて日本の支配下にあった土地の名称である。明らかにその言葉の場所へと読み手の思いを向わせ、或いは特定の意味として読まれることを期待されて言葉は書かれ、そのような意味の広がりの中で作品は成立しているように見える。

 言葉は俳句の秩序の中に置かれている、しかし、作品を鑑賞し、その場所への思いを寄せる者にとっては、その場所へその思いのままでは読み進むことが出来ないことを、直ぐにも思い知らされる。

「皇軍や砕けし玉をねぶる馬」の作品は、比較的意味の流れから理解可能な作品なのかもしれない。単純に読み進めば、砕けし「玉」は、尊い人の意味から男性の身体の部分を示す意味まで様々に存在している。ねぶる「馬」は、進軍する「馬」であると考えるとしても、読み手の様々な思いの中で、「玉」を中心にして一つのイメージに世界は統一され映像化されるはずである。

馬は兵隊より尊い生き物であり、中心にあるのは「玉」であるとはいえ、それにも関わらず、「砕けし」という言葉に対する読み手の理解、更には「ねぶる」ことへの想像の水準によって、「皇軍」に規定されつつも、この作品は攝津の創造者としての諧謔に満ちた意図によって、読み手に様々なイメージへと解体し理解を推し進めていく。

「皇軍」という言葉にどのような思いを抱くにしろ、その思いを持続することが困難な状態に放置される。言葉が新たに自己主張をしはじめるのである。

  

 

 

3「御恩」という言葉を世界から採取して面白がって遊ぶ方法で、彼はこの時代に生きたのである。「御恩」という言葉に沿いながら遠く離れた地点で、定型の秩序の中に抗うかたちで採取した言葉を置いた。

  

 

俳句は言葉の数が十七文字に限定され、当然示される意味もぎりぎりに迄そぎ落とされているので、作品の鑑賞のほとんどを読み手の創造力に委ねられている。

「皇軍や砕けし玉をねぶる馬」は、「皇軍」を起点にして、「皇軍」の持つ意味やイメージを必ずしも深めて高めるのではなく、逆にそぎ落とす方向へと進むことも可能な作品として書かれている。その意味するものは攝津幸彦には戦争体験がないことと、重要なのは、俳句を言葉の表現として根源的に問い詰めて書かれたことにある。

 

「天つ日の腰を洗へば照る亜細亜」は、前の作品より具体的なイメージを?みにくい作品である。「腰を洗へば」と「照る」へと飛躍していく世界は、通常の意味の流れを越えてしまい、意味を欠いたまま断絶している。この流れを彼自身が一連の言葉の構造の中で、意味あるものとして理解していたとしても、当然の事だが、読み手は攝津幸彦がいるその場所に立つことは不可能である。

作品を読むということは必ずしもこのような狭く限定された行為を意味している訳ではない。基本的に読み手は絶えず今現在という時間と場所にいるのだが、これらの作品は、作者の立っている場所に読み手が立つことは、そもそも不可能なものとして存在していて、敢えて言えば、意味の秩序がこわれた作品として提示されている。

ならば表現者にとって、いったい表現行為とは何かという問いにぶつかる。つまり言葉によって世界を表示し伝えるのではなく、むしろ世界の意味を剥ぐことに表現する意味を見つけたのだとすると、表現者としては自らの存在の否定でさえある、と思う地点ではなかったのか。

皇国に対して批判的な立ち位置にありながら、もっとも作品上では批判的であるかどうかは分からないのだが、いずれにしても「亜細亜」が当時持っていた意味を、無意味化する方向でこの作品は書かれている。彼の言葉での立ち位置としては、その言葉を支える世界に単に批判的であるにしても、或いは逆に好意的であるにしても、一方的な思いだけではこの作品は生まれなかったに違いない。

 

 攝津幸彦は昭和二十二年の兵庫県の生まれで戦争体験はない。作品に登場する「満蒙」「満州」等の示す場所も現実に存在せず、「聖戦」「皇軍」という言葉も最早生活上の実体のない言葉の一つであった。俳句誌「恒信風 三号」(平成八年二月刊)では、「攝津幸彦インタビュー」として、その経緯を次のように答えている。

 

  「皇国前衛歌」については、別段僕が戦争時代を知ってて、戦争大好き少年なんていうことはなくて、昔、電気蓄音機っていうのが流行りましてね、要するにラジオに接続するレコード・プレーヤーですね。ある時家の誰かがそれをもらってきたと。まあ、かけるレコードがいるということで、ちょうど京都の母親の実家に行ったら、昔のSP盤がたくさんあって、ほとんど軍歌なわけですよね。

 

  戦時の言葉について興味を持ったみたいなことがあって、軍歌集とか広げて、いろいろ言葉を引き出す、ということをやったわけです。あと、最初の方で言った、いわば諧謔ですね。・・・・・・戦時、立派な大人が、天皇の赤子として戦争に征くわけですけれど、そういう世界と、ある種、言語自体がもっている美しさっていうのかな、そういうところがうまくミックスして奇跡的にできたっていうのか。

 

 この発言で重要なことは、戦争体験のない彼が軍歌の中のある種の美しさを持つ言葉を選び出し、俳句の言葉として置き換えたことにある。「美しさ」という言葉には多様な意味を含んでいるのだが、「聖戦」をまさしく美しさのある言葉と思ったとしても、必ずしもその言葉の社会的意味を直接支持して使用したのではないことは、読めば分かるはずである。美しさを見出した意味は、不思議な動きする玩具を手にした思いに近いのである。

「南国に死して御恩のみなみかぜ」は、言葉通りの意味の流れでは、「南国」に(夥しく)死んだもの(日本兵)に、「御恩」の「みなみかぜ」が(吹いている)という意味である。とは言え、夥しい日本兵の南方での玉砕、「南国に死して」を特別のこととして意味を了解する多くの日本人がいて、同時にその歴史的時間から一定の日々が過ぎることで、この作品の言葉の位置と意味がある。勿論読み手は、可能な限り別の様々な意味として読んでも差支えないように開かれている。

当然の事だが、戦争体験者は、「御恩」に対してどのような思いがあるにしても、「南国に死して」のイメージに一定の具体的な像を持っている。彼らの理解の中にある言葉の広がりにおいて、定型の中に生きる言葉として積極的に攝津幸彦により選ばれ、美しさを見つけた構造の中で、「みなみかぜ」の世界は成立しているのである。

注意深く読めば分かるが、過剰な意味を付加しているように見えるが、実は何も言っていない。言葉に担わされた意味を積極的に表現するのであれば、「南国」も「死して」も「御恩」も更に「みなみかぜ」さえも、ばらばらに読み手の前に言葉として示すことはしなかったはずである。

「御恩」という言葉を世界から採取して面白がって遊ぶ方法で、彼はこの時代に生きたのである。「御恩」という言葉に沿いながら遠く離れた地点で、定型の秩序の中に抗うかたちで採取した言葉を置いた。それも「御恩」の言葉を含めて個々別々の存在として据えたのである。

 

 

 

                                     4時代の変遷をくぐり、それぞれの時代の生活の場にしっかりと結びついていた「季語」は、勿論それらは表現の現場で磨き上げられた言葉なのだが、輝きを失い多くの言葉と同じ意味でしかない時代に突入し始めた 

 

 

「聖戦」「皇軍」などの言葉が持っていた時代の言葉の強固な身体が崩壊していく中で、それでもその言葉の身体を自分のものとして未だ夢見続けている人々がいて、同時にまったく新しい言葉の身体をもつ人、例えば谷川俊太郎のような人もいる時代の中に攝津幸彦は生きて言葉と格闘したのである。因みに言えば、谷川俊太郎は有季定型の言葉とは対極にある表現者として戦後を出発した。

摂津の言葉との格闘が可能であったのは、皮肉にも有季定型による表現者として生きようとしたことにあった。俳句が文学の中で最も真摯に直接言葉に向き合う表現方法であった為に、その時代の言葉の裂目に身体を晒したのであり、有季定型に囲い込まれた「聖戦」や「皇軍」の言葉に向き合いつつ、別の在り方を探ろうとしたのである。

「皇国前衛歌」の「聖戦や太郎の袋にしづるる雪」のそれぞれの言葉は、敗戦によりその言葉を生んだ時代の人々の身体と乖離してしまった。つまり歴史的時間と場所とに結びついていた身体がその基盤を喪失して、別の意味と交換可能な言葉に変貌することにより、彼の言う諧謔として受け入れ可能となったのである。言葉が生きていた時代を懐かしむのではなく、面白い不思議な生き物として彼の前に登場したのである。重要なことは、それもあくまでも今を生きる言葉として想像の世界に置いたことにある。

その言葉の持つ生々しさが、人々の記憶の中に未だ存在している時代の現場にあってこそ、諧謔の対象となり力を持ち得たのである。「聖戦」を思い出としてではなく、生活上の生々しい思いを未だに感じでいる人々が身近にいて、それらの言葉が持っていた意味を別の意味に差し替える、或いは無意味化することに面白さを感じたに違いない。

 

攝津幸彦がこれらを試みた時代は、谷川俊太郎の言葉を引き継いで言えば、明治維新以後の日本語の急激な変遷にあって、戦争下の国家に規定された自然な振る舞いとしての身体が、言葉に仮構された身体とが強力に結び合っていた時代のひとつの終焉に当る。生活の現場からそれまでの身体が生きる基盤を失い、言葉に仮構された身体が意味を喪失し始める中で、俳句の言葉に向き合ったのである。

皮肉なことに、有季定型の基礎である「季語」が、あるべき現実の磁場の力を失う時代の始まりでもあった。時代の変遷をくぐり、それぞれの時代の生活の場にしっかりと結びついていた「季語」は、勿論それらは表現の現場で磨き上げられた言葉なのだが、輝きを失い多くの言葉と同じ意味でしかない時代に突入し始めたのである。

生活習慣の変貌、暮らしの旬を感じ取っていた季節感覚の消滅、それにより「季語」は、暮す人々の誰にでも身体が感じる生活上の共通意識ではなくなった。もはや辞書に収集された言葉の中の一つであり、皮肉なことに、懐かしい自然に満ちた生活の記憶の中の言葉でしかないものになった。「季語」の力を失った時代に突入したのである。

 

詩の世界では「荒地」も「列島」も、そこに属していた詩人達は、自分の身体と表現された言葉の身体とが強固に結び合って青春時代を生きてきて、敗戦で一挙に自分の身体の喪失を味わいながらその後の時代を生き続けた。強引な言い方をすれば、詩人の彼らも基本的には有季定型の精神で作品を書き続けた。例えば詩人鮎川信夫はその典型の姿であり、形は定型ではないものの、言わば季語「戦友」の詩を作りつづけて、戦後を生き続けたのである。

 

攝津幸彦は平成八年十月に四十九歳で亡くなるが、彼の時代は言葉の表現の場の大きな変動の時代でもあった。

例えば俳句の現場である句会に関して言えば、俳句の世界のネット上での句会が、小林恭二によって「闇汁句会」として開設されたのが、平成五年十一月である。まだパソコン通信と呼ばれていた時代の最後にあたり、恐らくネット上での本格的な句会としては最初だった。

 因みに、「闇汁句会」は平成七年三月にその使命を終え、その後はこの句会の参加人の一人であった小澤實(当時は結社「鷹」の編集長)が引き継ぎ、「風羅坊句会」として月一回の句会を開催しつつ、新しい俳句結社「澤」の立ち上げるまでの七十回をもって終了している。

 句会がネット上で開催されたことの意味は、今までの句会がお互いの身体が見える場での共通感覚を基礎としたものから、まったく姿も息遣いも見えない者が集い、更に言えば、どのような生活意識を持っているのか、お互いに分からない者が集う場へと変貌したのである。これによってネット上での句会では、「季語」はお互いの言葉を結びつけ了解し合う記号の役割へと歩み始めたのである。象徴的に言えば、純粋に記号としての言葉だけで向き合う句会へと歩み始めた。これは狭く句会だけに限った意味ではなく、広く様々な人間関係の場へと拡大しつつあると言える。

摂津幸彦はこの後の平成八年十月に亡くなるのだが、この節目の言葉の時代に生きたのである。

 彼の作品の言葉がもつ意味は、俳人の生きた身体と書かれた言葉の身体との乖離が意識され、つまり有季定型に全身を委ねるのではなく、その身体と言葉に対して自覚的な態度を取らざるを得ない時代に生み出されたことにある。

俳人としての身体は、生かされる言葉の場所から引き離され、つまり確実に身体の喪失感を軸にして存在したのである。それはもともとあった身体にたいしての喪失感ではなく、最初から在るべき身体にたいしての喪失感として存在し、戦争体験のない攝津幸彦にとって、「聖戦」も「皇軍」もまさにそのような季語として存在した。

 

 


5個の生きる時代を無視して伝統を受け継ぐということは不潔
であり、生活と関らぬ處で論理の鉄塔は建てられぬ

 

 

 攝津幸彦の俳句の言葉のもつ意味は、俳人の生きている身体と言葉の身体との乖離が意識され、つまり俳句を単に詠ずるのではなく、俳句で表現する言葉に対して自覚的な態度を取らざるを得ない時代に生きていたことにある。

俳人としての身体が生きている言葉の現場から引き離されて、つまり確実に自分の身体の喪失感を軸にして、言葉に生き続けることでのみ俳人でありえたのである。

 摂津幸彦は昭和四十三年六月に関西大学俳句研究会機関紙「あばんせ」第一号を発行して、その巻頭言でつぎのように述べている。

 

 文化の不毛が叫ばれて久しい。相も変わらず伝統主義者はもってまわった文章で「伝統」を神格化する術に懸命であり論理主義者は論理を神秘のベールにくるんで大上段に構えている。しかし個の生きる時代を無視して伝統を受け継ぐということは不潔であり、生活と関らぬ處で論理の鉄塔は建てられぬ。

 現代には現代の生活がありそこで使われる云葉がある。そして現代には現代の俳句がある。現代の生の云葉、生の感覚に基づく即物的具象主義、主体と対象との関わりを もう一度自己の主体で編み直す批判的リアリズムの実践による現代俳句、それが僕等の目ざす俳句である。僕等の目ざす俳句の前には、例えば有季、定型、俳句の思想性といった様な問題が山積みされている。その上僕等の俳句が俳句であるといえる明確な論理は何も持たない。しかし僕等は現代には現代の俳句があるんだという強烈なエゴイズムと生活と創作の内的かつ外的な統一というテーゼをぶら下げてこの痛痒感の実感に賭けようと思う。

 

 二十一歳の若い彼の前には、俳句の言葉の秩序の中に現実があり、これが彼の出発点としての原点であった。例えば、「父の斧」と題した俳句の作品を発表している。

 

 父といいあう 枯野で石打つ かなしさもち

 母にまぎれて まるく潜む 鋭器類

 手の届く範囲で転がす レモンの黄

 あらゆる玩具に 手を触れる そこら梅雨期

 同じはやさで ミルク飲む デモ後の仲間達

  

ここでは彼の世界が、その出生の秘密を語るようにして言葉が置かれている。「父」の言葉の意味を考える時、実際の父に、大学に、国家に、つまり読むものにとって抑圧する何らかのものとして、自由に理解して読み取ることが可能である。同様に、「母」の言葉の意味も、「ミルク」も、「レモン」も、癒してくれるものの言葉にまつわるあらゆる意味を、その時代と場所に規定されつつ受け入れられるよう置かれている。

 例えば、「父といいあう 枯野で石打つ かなしさもち」の句を、父との生き方の相違からくる葛藤として解釈するならば、実は読み手の人間が、自分の父との暮らしをそのように理解して意味づけたということに過ぎない。

 この俳句の言葉の特徴は、父との争いというのっぴきならない関係の世界として示されながら、これを支えるはずの言葉に強固な身体がないことである。父と向き合っている意識がもたらす強固な身体の骨格がこの作品の言葉にないことである。地についた自分の生きるべき言葉の身体を捜し求めながらも、言わば浮遊している身体のままで、この作品が書かれて成立しているのである。

 三つに山分けされた言葉は、それぞれが世界を閉ざして孤立して置かれている。「父といいあう」と「枯野で石打つ」と「かなしさもち」が、それぞれ間隔が空けられて置かれている。一連の意味からすれば、本来は一挙に「かなしさもち」へと言葉は収斂し完成に至るのだが、手足がもぎ取られたように並列して置かれている。「父といいあう」はそれだけで閉じた世界として孤立していて、彼はそのようなものとして言葉を置いていている。他の作品もまたそのような構造になっているのである。  因みに、発表されたこの昭和四十三年の同じ時期の他の俳人の作品を見ると、次のような作品が見られる。

 一月の川一月の谷の中     飯田龍太

 枯山に鳥突きあたる夢の後   藤田湘子 

 元日の日があたりをり土不踏  石田波郷

 

 石田波郷は大正二年、飯田龍太は大正九年、藤田湘子は大正十五年の生まれである。彼等は戦争体験者であるが、昭和二十年六月に東部八十七部隊に入営したのが、藤田湘子十九歳の時なので、体験の意味は異なっている。

 この作品を目にして分かるのは、強固に自己の身体に対する意識が培われた俳人の言葉である。ものに対して確固たる姿として表示しようとする意識を持っている。

 谷、川、鳥、土不踏、それらは彼らの身体の強固な投影物として、俳句の世界に存在させられている。

 ここの言葉は、様々な付着物を削ぎ落とした身体としての「谷」や「鳥」や「土不踏」であり、読み手の前に読まれるべく置かれている。これらが可能であったのは、有季定型の俳句の秩序によって強化され、表現上での削ぎ落とされた強固な身体として示すことが出来たからである。

 摂津幸彦の言葉は、石田波郷と同じ言葉を使ったとしても、彼の身体の強固な投影物ではなかったのである。 

 

 

 
6現代詩作家・荒川洋治との出会い…

 

  

 

 

  飯田龍太の句「一月の川一月の谷の中」は、厳寒の山間の世界を表現し尽くす秀句として知れ渡っている。だが目にしてすぐ分かることは、「一月の川」と「一月の谷の中」の言葉が、素っ気無く並べて置かれているにすぎない世界だ。敢えて言えば、身体の付着物をそぎ落として、自分の強固な身体の骨格そのものを示した作品としてある。

摂津幸彦の不幸、彼の生きた時代の言葉の不幸は、強固な身体を持ち得なかったことにある。時代が許さなかったと言ってもいい。それにも関わらず彼は、有季定型に強固な身体を夢見ることで、時代を精一杯に生きたのである。

誉れの高い「南国に死して御恩のみなみかぜ」は、時代の中で強固な身体の喪失を自覚しつつ、同時に有季定型に幻の身体を託することで危うく成功した作品である。

攝津幸彦が生まれたのは昭和二十二年であり、第一句集は『姉にアネモネ』は昭和四十八年に出版され、詩人荒川洋治は昭和二十四年生まれであり、第一詩集『娼婦論』は昭和四十六年に刊行されている。共に同時代を生きて、詩集『娼婦論』に見られる言葉は、攝津幸彦の使った言葉と同じ在り方を示している。攝津幸彦の日録によれば、荒川に出合って詩集『娼婦論』を頂いたと記されてある。

 題名は「娼婦論」とあるが、娼婦とはいったい何者なのかという疑問が湧いてくる。そもそも何が語られているのか、「あなた」と呼びかけられている人は何者か、「娼婦」は何処にいるのか、と様々に。

 

 まず私服の蛇を遠ざける 

 みぎれいな乞食(かたい)を屈ませ

 ひなびた必須をひねり

 かじかんだ呼鈴をむしり

 雪譜も埋まる雪の中 

 ひえるくるぶしを谷水にすすぐ

 あなた

 

 むなびれで韻をかしぎ

 死の呼び水でやさしさを漉き

 おびただしい男斧のほおばりに疲れ

 

 暮れては

 反故のすずしい重みを愛した

 あなた

 

 ほかびとにきかれまいと

 鈴に石をつめかける

 あなたは

 その措置も

 しおりのようにくるぶしをすべった

 

 こわれかけた蛇が

 はじめて意志を懐胎し

 時の落丁にあたる

 その夕闇に連座し

 にじますは虹と訣れ

 絹は逝く

 

 雪譜のかろさよ

 非にもみぞれ

 

 ここでは「娼婦」の言葉に示された誰かが具体的に登場することはない、意味するものも示されていない。むしろ「娼婦」ですらなく、無意味にされてしまつた「誰かしら」がいる。「あなたは」と特定された者ではなく、すべてのひとのひととしての「あなた」なのであり、それも身体をもたない「なにか」でしかないものである。

遠ざけたり、屈ませたり、ひねったり、むしったり、あらゆる行為を、それも喩でさえもない行為をするすべての「なにか」なのである。「かじかんだ呼び鈴」は、「むしり」という行為によって無意味にされている。娼婦と向き合う、誰かが「あなた」と呼びかけるが、ここでは見えるものとしてのひとではなく、言わば「娼婦」という言葉、言葉でしかないそれも美しくも無意味な日本語である。

 

 摂津幸彦の第一句集『姉にアネモネ』(昭和四十八年刊)には次のような作品がある。

 

 くじらじゃくなま温かき愛の際

 産み流すかな二の腕もなき水母かな

 胡瓜食む水の他人となりながら

 愛は暗し太きほとけを流しをり

 みづいろやつひに立たざる夢の肉

 千年やそよぐ美貌の夏帽子

 

 攝津もまた荒川と同じ言葉の身体を持ち、同じ視線で世の中を見ていたのではないかと思わせる作品である。ここでは定型に押し込められた日本語、「娼婦論」よりもなお一層言葉として解体されて露わになっているのが分かる。

 違いがあるとすれば、言葉を囲い込む定型との差だけにすぎないが、いずれの場合も、もはや通常の言葉の意味として世界の輪郭さえも辿ることが出来ない。別の見方をすれば、読み手の想像力に全てを委ね、自由に遊ぶ事の出来るよう開かれた世界であり、それを読み手に強いる世界として書かれている。つまり読者の想像力への挑発でもあることに間違いない。あなたの生きている言葉の身体って何なの、と問いかけている作品なのだ。

 




7確固たる事物は視界の外に隠れるように存在しているに過ぎず、それらの間を縫うように進んでいく眼差しは、何か懐かしい風景を見つめているに違いないと読み手に思わせつつ…

 

 

 作品「娼婦論」において荒川洋治は、「まず私服の蛇を遠ざける」と述べることで世界を語り始めるのだが、それは目指す世界の始まりを示したものではない。

 敢えて言えば、読み手が考えているような世界の始まりではない、と宣告したにすぎない。まず言葉を疑えとの宣言、つまり自分の身体から言葉を遠ざけよと。

 摂津幸彦の「千年」も、「そよぐ」も、「美貌」も、「夏帽子」も、全て分かり易く、誰でもが日常的に使用する言葉である。しかしそれらが「千年やそよぐ美貌の夏帽子」として、十七文字の言葉に示されると、それぞれの言葉の意味は剥奪されて、この作品の前で立ち竦んでしまうのである。言葉のひとつひとつは理解可能であるものの、二人の作品とも言葉の秩序の中では、意味不明のまま日本語の言葉として読み手の前に曝されているのである。

「千年」の時間を思い浮かべ、「美貌」と「夏帽子」のあらゆる情報を駆使して、ひとりのひと(女)に辿り着くのであるとすれば、その向うべきひととは「日本語」という言葉でしかないのではないか、とさえ思うのである。

 

 荒川洋治の詩集『娼婦論』の最初の作品「キルギス錐情」の最初の部分は、次のようになっている。

 

方法の午後、ひとは、視えるものを視ることはできない。

 

北ドビナ川の流れはコトラスの市からスコナ川となり史実のうすまった方位にその訛を高めている。果たしてそこにひとは在り、ウラルの高峰をのぞみながらてごろな森を切っている。倒れ木の音は落ちゆく地理に気をもみながら負の風をうけて、樵夫の午後に匿されていく。

 

 この作品は「娼婦論」よりは意味を容易に汲み取ることができる。まず視ること、当然言葉で視ることの宣言ではじまり、視線は具体的な場所のまず視えるものに向けられている。言葉はそれらのものの姿をなぞりながら、いつしかその視線の痕跡を示すだけとなっている。

 「ひとは、視えるものを視ることはできない」との宣言通り、視線は確かなものの姿を見て取ることが出来ず、つまり現前するものの確かな姿を捕らえることを保障する視線ではないことを示しつつ、言葉は前に進んでいくしかない世界である。いったい何を見ようとし、何を見たのか。

 見えているものを見てしまうことを疑う世界としての作品がここにある。直接目にした物事ではなく、物事に向けられた彼の眼差しそのものを描いているのだ、とのみ言える世界である。確固たる事物は視界の外に隠れるように存在しているに過ぎず、それらの間を縫うように進んでいく眼差しは、何か懐かしい風景を見つめているに違いないと読み手に思わせつつ進んでいく。

 とは言え、その懐かしさは過ぎ去った良き思い出だけが詰まっている時代に向けられたものではい。それはあくまでも現在の時間の中の見えてくるものに向けられた視線であり、現在が思い出のように懐かしい、つまり消失した身体のあった場所を巡る視線なのである。

 

 荒川が現実に中央アジアの「キルギス」のその場に立って見たかどうかは、作品にとっては些細なことである。単に言葉「キルギス」に興味を持っただけなのか、更に図鑑で見ただけのかもしれない。ここに示されているのは、それぞれの事柄を示す日本語の手触りである。言葉によって喚起されたものへ向けられた視線の肌触りである。

 それは自分の身体の喪失によって生じたものであり、攝津幸彦が「くじらじゃく」「ほとけ」「水母」という言葉に見せた眼差しも同様であった。自分の強固な身体の投影物ではなく、失った身体に対する眼差の投影物なのだ。

 

 攝津幸彦の第六句集「陸々集」(平成四年刊)には次のような作品がある。

 

 路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな

 国家よりワタクシ大事さくらんぼ

 荒星や毛布にくるむサキソフォン

 

 「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」は、自選十句の中の一つでもあるが、明らかに「皇軍前衛歌」のものとは異なっている。「国家よりワタクシ大事」という直截的な意味づけのある一節なのだが、「さくらんぼ」と同等の質量のを持つものとして置かれ均衡している。他の作品も同様であり、つまり、「国家」は「皇軍前衛歌」の中の「皇軍」と共に存在した言葉ではなく、「サキソフォン」や「金魚」と同レベルの言葉として使われている。

 「金魚」も、「さくらんぼ」も、「サキソフォン」も、当然それぞれ別のものであるものの、交換可能なものとして示されている。確かに「サキソフォン」は「荒星や毛布にくるむ」に続く場所に置かれることによって初めて生きている。しかし、個別の言葉に限定して言えば、「金魚」や「さくらんぼ」に置き換えることが可能なレベルの言葉で、この世界が出来ているのである。

この「国家」から「さくらんぼ」まで読み進めていくと、もはや最初の「国家」立ち戻ることの出来ない位置に立たされてしまう。言葉の身体の変貌である。

 「ひとは、視えるものを視ることはできない」と、荒川が作品の冒頭で述べた時代を、攝津幸彦はこのようにして生き続けたのである。

 

 

 
8摂津の「そよぐ美貌の夏帽子」とは何か

 

 

  攝津幸彦は俳句の表現にどのような可能性を見ていたのか、むしろどのような表現をもって言葉の可能性を夢見たのかと言うべきなのかもしれない。彼の世界の本質を示す一句を敢えて挙げれば、第一回五十句競作佳作第一席(「俳句研究」昭和四十八年十一月号)の作品で、「亡父あるひはあひるの為の頌歌」と題された中の一句である。

 

南浦和のダリアを仮のあはれとする

 

「南浦和」は当時住んでいた土地なのだが、「ダリアを仮のあはれとする」ことにこそ、言葉での表現の世界の意味として考えたに違いない。伝統の「あはれ」ではなく、「南浦和のダリア」こそが「あはれ」なのだと、そのための表現行為として俳句の言葉との戦いだった。更に言えば俳句の世界の言葉の革新として位置づけたのである。

詩人鮎川信夫は現実には実在しない「姉」を詩の世界に引き入れて描き、『あなたの死を越えて』『姉さんごめんよ』『落葉』を生みだした。他方攝津幸彦には第一句集『姉にアネモネ』(昭和四十八年刊行)があり、二十八歳の時のものであるが、ここでの「姉」は鮎川信夫のように、姉妹の「姉」を直接指し示しているのではない。

 

姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ

首枯れてことりこ鳥子嫁ぐかな

くじらじやくなま温かき愛の際

千年やそよぐ美貌の夏帽子

みづいろやつひに立たざる夢の肉

 

「あはれ」なるものとして示されているのは、身近な肉親としての濃密な言葉との関係であり、何かを示そうとしてはいるものの、具体的なものは何も示されてない。それは全て読者の「姉」への想像力に委ねられ、その思いの力量に応じて読者の中に実現されるはずのものにすぎない。

言葉は、「あはれ」なるものを見るその一途な視線の先に、あるはずの親しいものの痕跡にすぎない。

詩と俳句の方法の違いがあるが、鮎川は戦後を生きることの意味を探ることで、詩の作品の中に「姉」との関係を実現しようとした。では摂津の「そよぐ美貌の夏帽子」とは何か。俳句は十七文字の定型なので、当然の事だが「詩」のようにこれ以上読み進むことは不可能である。

更に作品を読み返しても、世界の意味を「詩」のように読み取れないことを思い知らされるばかりで、無意味な作品であると断定して目を逸らす以外ないだろう。

だが俳句においての読者は、「千年」という時間に直接向き合わされ、自分の言葉の在り様の試練に立たされる。更に、「首枯れて」も「くじらじやく」もそのように置かれているのに気付くはずだ。

ここでの「姉」は鮎川の「姉」と同じ世界のものなのかどうか、とは言え、鮎川の作品を読むことで具体的な像を得て、攝津の「姉」を読みとることも可能である。それはあくまで可能性の問題であって、全ての読者にとってそれは各人一人ずつの可能性として、作品は開かれている。

鮎川の「姉」はあくまでも限定されて世界に生きているのであって、他の誰かの姉など許されない存在として描かれている。「そよぐ美貌の夏帽子」を被っているひとりの女(男かもしれない)に、視線は向けられているものの肉体は喪失している。或いは置かれたままの帽子なのかもしれない。「千年や」とあるからには、そよぎ続けるという時間の中に置かれていることだけは確かである。

「姉」という言葉を選んで受け入れた世界、その感動のもとについては何も具体的に語られてない。鮎川のように具体的に関係を提示せずに、「姉」の世界を表現しようとした。つまり、俳句の方法を選ぶことで、「姉」の意味を消し、新たな「姉」なるものを成立させたのである。

「表現というのは、一方で言葉の意味を消してゆく過程ということができる」と言いつつ、「消すことに賭けた努力の跡を少し残しておかないと駄目だ」(昭和五十一年「俳句研究」)とも語っている。読者は視線の先のものの世界を具体的に見ることは出来ないのである。

従って、彼は言葉で世界を作り上げるという表現行為ではなく、予め与えられている世界を言葉で壊すという表現行為をしているのであり、その為に絶えず読者は不安定な居心地の悪さに置かれながら、不思議な船酔いの世界にもてあそばれるのである。

「南浦和のダリアを仮のあはれとする」とは、どのような作品だったのか。それは「日本語」とは何か、十七文字の「定型」とは何か、更にそこで成立する「俳句」とは何かという問いであった。肉体であり、衣装でもある日本語の可能性を問い続けたのである。

 

ところで俳人(日本語を表現として使う全ての人々)にとって日本語とは何か。桑原武夫の「俳句」への批判は、俳人達の日本語表現について考え直す一助となったが、言葉で表現する文学全体にまで広がることはなく終わった。

志賀直哉は「國語問題」(「改造」昭和二十一年四月発行)で、これからの国語は、面倒で不便な漢字などのある日本語はもう止めにして、国語としては世界でもっとも美しい文化のフランス語にすべきだと言った。

桑原武夫は「第二芸術」(「世界」昭和二十一年十一月号)で明治以後の日本文学が駄目なのは思想的社会的無自覚であり、その創作態度として俳句を手本にしていることによるものだと言った。敗戦の自信喪失で日本語に対して懐疑的な発言が続出した時代から六十年余が経った。(了)

   摂津幸彦の略歴                    編/村嶋正浩

1947年 1月兵庫県にて生れる

1966年 関西学院大学入学 映画研究部所属

1968年 関学俳句会創立、俳誌「あばんせ」創刊

1970年 広告会社東京旭通信社入社

1973年 第一句集「姉にアネモネ」刊行

1973年 高柳重信編集「俳句研究」五十句競作に入選

1976年 第二句集「鳥子」刊行

1980年 同人誌「豈」創刊 仁平勝、太井恒行ら参加

1986年 第四句集「鳥屋」、第五句集「鸚母」刊行

1992年 第六句集「陸々集」刊行 順天堂大学病院入院

1995年 小林恭二「俳句という愉しみ」(岩波新書)の句会に参加

1995年 第七句集「鹿々集」刊行

1996年 10月没 49

2006年 「摂津幸彦選集」(邑書林)

 

 

摂津幸彦自選十句

 

南浦和のダリアを仮のあはれとする

南国に死して御恩のみなみかぜ

物干しに美しき知事垂れてをり

わが昼を離れてありぬ梨の花

階段を濡らして昼が来てゐたり

殺めては拭きとる京の秋の暮

野を帰る父のひとりは化粧して

急雨の桜山即桜鯛

国家よりワタクシ大事さくらんぼ

路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな