動物園がゲートをひらく


 わたしもとうとう四十歳になって図書館と動物園の区別がつかなくなった。
十五、六の連中には年寄り扱いされるが、やつらに扱われなくたってわたしは
老いぼれた。
 その気になって動物園へいけばそこが図書館でないことぐらいはまだわかる。
動物にはたいてい表紙もページもない。背表紙みたいなものはあるかもしれな
いが、ことばはきわめてすくない。したがって静かだ。
 しかし図書館へ出かけていって、そこが動物園でないといいきれるかどうか
あやしい。書棚はあいかわらず檻のようだろうし、書物じたいが鉄格子みたい
に頑丈ななりをしているだろう。背表紙が動物の顔をしていたり、ときにはい
きなり吠えついたりする。それがふつうで、やかましいところが図書館だとい
うのは理屈でわかる。
 そして本のえじきになったひとの姿がこっちのテーブル、あっちのソファに
あって身じろぎもしない。ぼんやりしていればいつ檻が破れてあまたの本がひ
とを襲ってくるか予測もつかない。ページから活字が立ち上がるのはほんとう
で、無数の牙、毒牙をかくしもっていかにもおとなしそうにしているのが本と
いうやつだ。

 動物園にはゾウやキリンやわたしがとくに好きなカバもいるし、かれらと友
達になることもある。図書館にも小鳥やチョウにまじって、いすの脚にヘビが
からみついていたり、ビデオライブラリーのヘッドフォンがじつは蜂の巣だっ
たりするが、ここでも生きものたちと友人関係をむすぶことができる。

 けれども本のえじきになっているひとと友達になるにはおそすぎるし、ぎゃく
に本に喰らいついているハイエナもどきには近づかないにかぎる。

 図書館にする? 動物園にする?
 台所からきこえるその選択肢にあいまいさはないのか。
 でんしゃにのりたいから、どうぶつえん!
 そんな選びかたがゆるされるのか。
 あるいて行けるところもたぶん動物園さ、とわたしはこっちのへやでひそか
に抵抗する。
 休日は右もひだりもまちがいがなさそうなわがやにすがっていたい。勤めか
ら帰ってきたらそこがわがやでなくて動物園だった、という日がやがてくるか
もしれない。そんなけはいをせなかの腫れもののようにかんじることがある。
 四十歳のせなかでは老人性の脂肪のかたまりが熟しつつあるのだ。