おれにこんなわけのわからんセリフををいわせるな!!

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誤字の蜂





 ひざが抜けたよれよれのジーパンがデッキの手すりに干してある
のでそいつに目を奪われないよう、おれはデッキチェアにからだを
うずめ、濃いめのコーヒーを飲みながら台本を読んでいる。本日の
誤植、白輪の矢。白羽がなんで白輪になるか、おそまつなミステイ
クはミステリアスでもなんでもないのだが、ヒマなおれは誤字の隙
間へハチのようなものが飛び込むのを見る、その小さな穴から風が
吹いてくる。微小な、花粉のようなものが舞いあがる。「え、おれ
にハクリンの矢が立ったって?」 おれにこんなわけのわからんセ
リフををいわせるつもりじゃないだろうな。おれは台本を放り投げ
てつぶやく、「おれにこんなわけのわからんセリフををいわせるな」
ニュアンスを変えてもういちど「おれにこんなわけのわからんセリ
フををいわせるな」、もういちど……手のコーヒーが冷たくなるま
で。

 台本書きの、風を名乗るガセ詩人やら、詩人を自称するへたれ風
やら、ひとしきりツルバラの葉をそよがせたあと、生垣のむこう、
イヌを連れた男のいつもの時間が近づいてきて、けさは四つん這い
になって前を歩くのが飼い主の男、リードを持って後ろからついて
いくのが足の短いイヌ(イヌ嫌いでイヌの種類名などわずかしか知
らない、聴いてもすぐわすれる)、イヌのくせに二本足で歩くな、
とイラついているのはだれか、おおかたは四ツ足の生きものが二本
足で歩くのをおもしろがるものだが、イヌはべつ。いまのあいつの
談話にはバカな文学好きがかかわっているにちがいない。談話の原
稿にやたらに括弧を使ってお里が知れるというものだ。単語を強調
したって意味ねえべさ。しようがなくてあいつは身ぶり手ぶりで言
葉を補う。談話の原稿にアクションのト書きがあって、おれらの台
本も顔負けなんじゃないか。書割の風景に小便をひっかけているの
はイヌかあいつか、模糊としている。さめたコーヒーを飲みきった
ところで意外な時間がやってきて、デッキチェアから斜めに身をの
りだし、誤字の穴に手をつっこんで台本の背をつかむ。あぶねえ、
あぶねえ、ハチに刺されなくてよかった。