アリゾナのシムノン氏
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シムノンさんはご在宅かい?
木の扉をひいて声をかけた
フロアの中央のテーブルのトラ猫が
前あしを伸ばしながら金色の右眼をおれに向ける
左眼は黄緑だが
奥の窓の外の色づいた蔦の葉でも見ているのだろう
シムノンさんよ 声を強くした いねえのかい
鍵もかけずに、などと心配しない
おれだって家の鍵なんてかけたことがない
特に用があるわけでもなし
伸びをして少しはカラダがらくになったか
だがまた居眠りをしそうなトラ猫に
あばよ とひらきかけた扉をとじた
かたちばかりのドアベルが
錆びた声をあげておれを追い立てる
いればコーヒーでも飲みながら
とおもったのだが しかたがない
畑に寄ってミニトマトでも摘んで帰るとするか
と、そこにめあてのご仁がいた
渋柿をがぶりとやって顔を向ける
甘いとおもいこんでいる表情がうすらさむい
猫もおまえさんも退屈しているな
ああ、とシムノンはこたえた、退屈しのぎの柿どろぼうだ
だれかの退屈しのぎのために生らせている柿ではないが
まあ、いいさ、いまはじまったことでもねえし
ところでシムノン、小説を書いてないな
歳のせいだとでもいうかとおもったら
ああ、ギャルソンの眼が変わって
なんとなく気持がなえた
眼が変わった?
左と右の色が入れ替わった
右が金で…とおれがいうのをさえぎって
それはこのあいだまで。いまは色はそのまま
右と左が入れ替わった
おれはいましがたのトラ猫を思い浮かべた
テーブルの上で頭を右に腹を左にして寝ていたのだ
しかしかれを悩ますわけにいかない
それきりのことにした
シムノンは柿をまたひとくち
がぶりとやって、いった このアリゾナでは
90%以上のひとがろくに果物をくわない
きみもわたしも例外だ
おれもこの柿ばかりはくわない、と
いまさらシムノンに反論することでもない。