ピアノのレッスンにあきた彼女の妄想


とんぼ譜    word&photo

 くちなしをピアノの部屋にかざるときは、庭から手折ったものを水道の水で洗う。これにはたいてい一ミリかそれよりも小さい虫が無数についているから、洗い落とさなくてはいけない。

 くちなしは、枯れても、腐っても、えだにしがみついている花である。花のうちでもとりわけしっかりしたつくりだから、水洗いは、少しぐらい乱暴にしごいても花びらがちぎれるようなことはない。

 虫はかんたんに落とせる。ただ、つぼみがあればそこにもかならず虫が入り込んでいるから、少しのあいだ花ぜんたいを水につけておく。花の水浴だ。それから花瓶に挿す。

 あまい香りに安心して身をまかせるには、花を洗うくらいのことをおっくうがってはいけない。

 

          †

 

 彼女の楽譜には、おたまじゃくしではなく、とんぼがむらがっている。

 とはいえ、とんぼの一匹いっぴきに目玉や口といった部位の区別はない。頭部と胸部そして六本の脚までが楕円ひとつに集約されている。羽は透明で見えない。見かけはおたまじゃくしだが、逆立てた尻尾、あるいはまっすぐ下へ伸ばした尻尾は、成長するにしたがって、もげたり消えたりするものではない。

 とうぜん、空は飛べても、泳げない。産卵のさいは絶妙なタイミングで水面に接触するかれらも、全身が水につかった姿はたいていの場合、とりかえしのつかない状況にたちいたっている。かれらだってヤゴの時代の数年間は水中でくらしていたのに……しかも、生き抜くためのふるまいは、おたまじゃくしなどよりはるかに凶暴だ。そもそもおたまじゃくしは、かれらにとって恰好のエサにすぎなかった。

 立ち泳ぎでもするようにホバーリングする。たとえばカワセミなどよりはるかにたやすくホバーリングするので、むしろうつろな感じになってしまう。つまりホバーリングは、意味もなく(音もなく)楽譜に張りついているようなものだ。

 全休符はしかし、これもとんぼにはちがいないが、ホバーリングではなく、飛びつづけている場面のひとコマだ。

 こうして彼女の楽譜にはとんぼがさまざまな態様で、単独で、またはつがいで、あるいは三匹の連れ、もしくは五匹、六匹、七匹、十数匹とつるんでいたりする。

 

          †

 

 楽譜はいかにも音をとじこめておく柵のようにみえるが、たまには柵を逸脱するくらい音は自由でなくてはならない、と彼女はかんがえている――いや、音そのものがある領域を越えて泳げなくてはいけない、もしくは泳ぎに似た動きが不可欠だ、音とはそういうものだ、そうして音はみずからのうちにさまざまな可能性を秘めている。

 とはいえ、音が柵から逸脱したり、音みずからの領域を越えたりするのは、夢見がちな人になにかしらのヒントになるようなとくべつな話ではない。より遠くへ響かせるという人為的、技術的な話でもなく、隣接するほかの音を侵すとか抱きこむとかいうのでもない。あくまでも音それじたいが世界を広げ、深さ高さを増幅するだけのこと――いわば音の自己増殖というものだ――これがみずからの音楽的才能をうたぐっている彼女のいいわけである。才能はない、性格があるだけだ……。

 

          †

 

 いつものことだが、夏が終わるころには、楽譜にはほとんどなにものこらない。ところどころに枯れ草のようなかわいたむくろがひっかかっているばかりだ。とんぼがとんぼを喰らっている光景もまのあたりにする。

 つぎは、とんぼをやめて、楽譜にくちなしを咲かせてみようかしら、と彼女は鍵盤に両の手ををおいたままおもう。こんどの夏の音楽は、洗浄だ。せっせと花を洗うんだ……。


2009.9.25改