うちの花を撮ってくれといわれているような
趣味の写真であそんでいるだけなのに、しきりに感心されて、当惑した。
「朝早くから、熱心だね」
境内で、けさの目的の白梅や白縞陰陽竹を撮ったあとだった。
山門から鳥居まで三、四十メートルしかない参道を歩いて、かたわらに広がる湿地帯の雑木のなかにまだ先の話のハナショウブの葉や、そこをかすめて飛ぶウズラなどの影を見たり、参道をはずれて、真竹の根方の節くれの形のいいものはないかとのぞきこんだりしていた。
朝が早いといっても、神社に来たのは八時過ぎだったし、それから二十分あまりはたっていたのだ。
感心されて、ことばを詰まらせていると、
「ネギ、いらねえか」という。「どろねぎだが」
見ず知らずの者に親切なことだった。
ためらったが、ことわる理由もみつからない。「ありがとうございます。いただきます」
そのひとは、神社参道に沿った家の住人だった。私を招じ入れながら、
「筑波のネギだ」
といった。
農家のひとかとおもったが、そうではないのか。
農業だけれども、ネギはやっていないということか。
「送ってきてもらったんだ。家族は何人?」
「ひとりです」
「じゃあ、二、三本でいいな」
玄関先にネギの束があった。
農家のひとが市場などへの出荷のために荷造り用の機械を使って束ねたものとおもわれる。(ネギではないが、仕事でそうした機械を扱っていた時期がある)。そのうちのひと束が何十キロかはなれたこの家へ届けられたのだろう。見るからに太くてしっかりしたネギだ。
いったん家に入りかけながら、
「花」
といった。
鉢植えの花を差している。
「こういうのはどう」
それとなく撮影を勧めている。
「撮るのは、自然のものかい」
「ええ、まあ」
園芸ものにはたいして関心がない。そこにあるパンジーそのほかにもやはり心を動かされない。きれいだけれども、これらの花のかげりのなさに興味は横すべりする。
パンジーは撮らないが、ネギの切り口などは撮ったことがある。
こういうときは、愛想よくこれらの花にもカメラを向けるべきだろうか。
こしらえもののような美しさにくみしようとするおのれが張子のようにこわばる。頸から提げたカメラもまたボール紙かなにかでこしらえたおもちゃのような気がしてくる。
でもいまは、他人のこの庭に棒杭のごとく立っていなければならない。
そのひとは鋏や新聞紙を持って家から庭へ出てきた。
束ねてあるビニールヒモを鋏で切った。
「日陰に置けば持つから」
まだ新しい新聞の日付を確認してから、三本のネギをていねいにくるみ、いましがた切りはずしたビニールテープをかけて結わえた。
それほどまでていねいにすることもないとおもったけれど、おかげでカメラバッグのフラップに新聞でくるんだネギを噛ませて、どこも汚すことなく担いで帰宅できたのだった。
あくまで身がひきしまり、辛み、甘みの調和も申し分のないネギだった。
納豆のきざみネギ、汁もの、炒めもの、と賞味した。
焼き鳥のネギマはどうだろう。昔のような酒飲みではなくなったせいか、酒の肴をわすれるところだった。これをためさなくてはいけない。
さて、しばらく使っていない金串はどこだろう。
2009.6.5