使わないコタツについて

もうひとつの快感


 こどもじゃあるまいし、とおもうのだ。
 使わないコタツがある。季節が季節だから使わないというのではなくて、冬でも使わない。小さな家に住んで、こんなばかでかい暖房器具に足を突っ込んで無駄な電気を使うことはない。そもそもコタツにもぐりこむ趣味がない。冬はカーペットの暖房で十分だし、足をあっためたいとおもったら小さなテーブルに毛布でもかけて、カーペットの熱を溜め込んだらいい。
 なんでこんなものが家にあるかというと、二年前に死んだ弟の持ち物だったのだ。よんどころない理由でここにきて、場所ふさぎをしている。とりはずしたりたたんだりできる脚ではなくて、いつでも四本の脚を突っ張っている。部屋を歩いて、ときどき体をぶつけることがある。
 これを片付けるまえに、本棚のものなどを整理していたのだが、まったくはかどらない。文庫本200冊ばかり別の部屋に運んで、
「ああ、あんなものでもなくなれば部屋がずいぶん明るくなるもんだ」
 と感心して、そのあとどうしたかというと、そこでストップして、本棚の本がちっともへらない。体がだるいとおもう前にやる気が起こらない。部屋がごたついたまま……というよりごたつく一方で、一週間をすごすなんてあっという間だ。
 こどもじゃあるまいし、というのは、ようやくコタツを押入れに納めることができて、ふっと、かすかな快感を覚え、
「なんてことだ、片付けぐらいで」
 とおもうからだ。
「おかたづけができたねえ」
 などと親がこどもをほめる、あれだ。
 こどもはほめられて、<おかたづけ>が親を喜ばせることを学ぶのだろう。整理が快感につながるなんてのは、こどもにとってはまだ先のことだが、とりあえず親に快感をあたえる喜びを知る。おそらくそういうことだろう。  わたしの場合は、コタツを片付けてだれを喜ばしたのかといえば、ほかならぬ自分自身なのだが、こんなあやしげな喜びをほかにたとえるとしたら、ひとつしかない。
 コタツの片付けが性的快感であるはずもないが、ふだん、仕事にとりかかるまでが厄介なわたしにすれば、ずいぶん違った感覚でこの<おかたづけ>を受け入れたことになる。
「そうか、物が片付くのといっしょに、自分のココロがこうして片付いていくのか」
 とおもいたい。
 で、そのあとどうしたか。
 いい気分のところで、それ以上、ものを片付けるのを中止した。
 いまの気分さえしっかり覚えておけば、あとあとなにかにとりかかるときに役立つだろう、そのことを知っただけでいまは十分だ、と勝手な理由をつけて。
 やる気がなくなって物事がストップしたのではなくて、意思あって物事を中止したところが、自分では、エライ、とおもっている。このあたりも、こどもじみている。


2009.6.12