若草大橋のアゲハ


 ことし四月、利根川に新しい橋が開通した。
 利根川河口から数えると、銚子大橋に始まって、七つか八つめの橋となる。十年前の道路地図帳では、波崎と銚子をむすぶもうひとつの橋が計画されているようだが、それがどうなったのか、そちらへ出かけもしないからわからない。
 若草大橋、とおしゃれな名前がついた。延長1,700メートルと料金所の手前に看板が出ているが、橋の部分は600から700メートルぐらいだろうか。有料道路だ。
 架橋工事はどれほどの年月がかかったろう。地質や地形の調査もあったろうから、それをふくめるとそうとうなものだろう。計画されてからとなると、十年ぐらいかかっているのだろうか。

 工事が目にみえてきたのは、川底の砂をすくう船が、流れに舫い、エンジン音を響かせ始めてからだが、それからでも二、三年はたっているとおもう。
 やがてコンクリートの橋脚が水面から顔を出し始め、ひとつ、ふたつと建てられていく。はたからみるとじつにのんびりとした速度で工事は進んでいるようにみえたものだ。
いよいよ橋を渡すころとなってちょっとした疑問がわいた。
 橋脚の幅をまるまる使うのではなくて、片寄りの半分だけの幅に橋をかけているのは、なぜだろう。とりあえずは車専用、それからあとの半分は、歩行者用とか。
 それがそんなことではなかった。
 もともとは片道二車線の予定だったのを、一車線に減らしたというのだ。おおざっぱな計算では、橋脚の二分の一がむだになったのである。

 ところで、茨城県から千葉県へこの橋をわたると、すぐその先はT字路で、右か左へ折れるほかない。うまく道を選んでも、まっすぐ南下するというわけにはいかない。  それで既成のふたつの橋の混雑が緩和したかというと、それほどのこともない。いずれの橋もあいかわらず混雑している。そのことは、わざわざふたつの橋を見にいかなくてもわかる。若草大橋には、車がいない。そんなふうにいっても大過ない。若草大橋は、おのれの重みにひたすらたえてそこにある。
 これが有効な、価値ある橋となるには、百年、あるいは二百年かかるかもしれない。あるいは永遠にそんな日はこないかもしれない。
 そうした橋でも、開通式とかセレモニーとかは行われたのだ。
 圏央道とかなんとか、道路が何百メートルか開通すると、催し物をする。全長何十キロだかの道路が完成するまでに、なんどテープカットのお祭りをすれば気がすむのか、ばかばかしくおもうこともある。

 橋の下の川原、橋脚の周辺には真新しいテトラポットが数多く投げ込まれている。釣れる釣れないはともかく、釣り場としてのロケーションはけっこうなものだ。だが、釣り人は保守派とばかりいつものように橋から離れた岸辺に日傘をならべている。
 川原に降りると、蝶が泥土のうえにむらがっている。コンクリートを打ってある岸辺は、さいきんの雨つづきで水かさが増し、泥を岸に残してもとの水位に下がったところらしい。ドロは、乾いたところもあれば、まだ水気を含んでいる部分もある。蝶がむらがっていたのは水気を含んだ場所だ。十数匹のアゲハが羽をふるわせて、なにかをむさぼっているようにみえる。アオスジアゲハ二匹、キアゲハ二匹、アゲハが十匹あまり。しばらくみていたのだが、少し近づくと警戒して、地上を離れる。いったんその場を離れるとふたたびそこへ帰ってくることはなく、あたりを飛びまわるだけとなった。蝶は、橋をくぐったむこうの草むらにもむれをつくっていた。
 かつて住んでいた川崎でも、生田いくた緑地へでかけていって、こういうふうに蝶がむらがっているのにでくわしている。何の木だったか、高木の根方に二、三十も集っていた。それだけの集団になると、一匹いっぴきのはなやかさは、おドロおドロしいものに成り代わる。あれはたしか水分をとっているのだが、生きものの執拗な欲求が伝わってくるようで、むしろ、重くるしい気分になる。
 昆虫館などで、蝶の群れにたかられてきゃあきゃあ騒いでいるひとの姿をテレビで何度かみたが、いっぴきでも体にたかられたら、ぞっとする。わが家の庭でそうした経験がある。羽はともかく、からだをつぶさにみれば決してあいらしいものではない。群れると、そうした気色のわるさが増幅するようにおもわれる。

 川の岸辺で、腰に手をやり、仁王立ちになって蝶の群れ飛ぶのをながめていた。
 五十がらみの、ステテコに肌着の太めのひとが、なにやら棒をふりながらやってきて、
「パトロールのひとですか」
 ときく。
 こちらの姿勢がもしかするとそんな誤解を招いたかもしれない。せいぜい暑さに耐えていただけのことだ。ちがいますと答えると、ああそうですかと、それきり、ぶらぶら川原を歩いていく。
 ひきあげることにして、そちらをみると、そのひとは橋の影のなかにいて、ごろごろした割り石を金網で覆って敷き詰めているところで尻もちをつき、川をながめるふうであった。すわり心地がいい場所とはおもえない。
 それにしても、木の枝のような棒は、なんなのだろう。杖代わりにしているのでもなく、さっき、こちらをひるませるようななりでふりまわしていたのも、どういうことなのかわからない。たんなる手慰みなら、あぶない動きはひかえてもらいたい。あちらもおなじようなことをかんがえたかもしれない。紛らわしいなりで突っ立っていたもんだ、と。
 パトロールだったら、なにをいうつもりだったのだろう。
 なるほど、あたりをパトロールするひとが実際にいるのかもしれない。みまわしたところ、草刈りのチームが土手で器械としっしょに斜めになって芝刈り機を運転していたり、橋のたもとで休憩していたりするのがいるばかりだが。

 土手を登りながら、橋にある歩道を歩きたいとまたかんがえている。橋が開通する直前にいちど歩道をむこう岸まで歩いている。橋はこれまでの土手道をふさいで、腰までの高さの鉄さくが立っている。その一部分は押せば開くようになっている。禁止の札はない。だが、だれでもそこを自由に出入りしてもかまわないとはおもえない。そんなことをしたら、車もひとも危険にさらされる。
 料金所のところからなら這入れるのだろうが、土手から二百メートルくらいむこうだから、バイクでたんぼの中の道−アスファルトがまだ黒々としている道−を通って土手へ来てしまうと、ややこしい。
 散策という無用の用でも、歩道へは料金所からでないと這入れないというのは、めんどうだ。気晴らしにきて、気がめいる。いつものように、橋をながめるだけでひきあげたほうがよさそうだ。



2006.8.2