歌謡曲は死んでいる。
しかも殺されたのである。
だれが殺したのか。
大衆である。
しかし、ほんとうに大衆が犯人なのか。
作詞家・阿久悠(1937〜2007)は亡くなる前年の2006年夏、東京新聞に「だれが歌謡曲を殺したか」と題してエッセイを書いている。
こんなくだりがある。
歌には、「聴き歌」と「歌い歌」と、「踊り歌」がある。
この三つは並列の条件のように思えるが、本来は「いい歌だね」の感想があって、「真似てみようか」になり、「踊ってみるか」になったものである。
「聴き歌」がなくなったのは、みんなが歌う人になり、自分が歌えるかどうかが作品評価の基準になってきたからだと思う。ということは、プロ歌手の圧倒的表現力や、プロ作家の革新的創作力などは、むしろ邪魔になる。ただ気持ちよく歌いやすいものを選ぶ。
まず、歌謡曲をどう定義するかということに阿久悠はてこずっているのだが、要約された部分を引用すれば
<歌謡曲が真ん中にドンと座り、右翼に伝統的演歌、左翼に輸入加工のポップスというバランスの筈であったのが、真ん中がスポッと抜け落ちてしまった>
ということである。
そうして、上にあげた文脈からは、「聴き歌」がなくなったことで、「歌謡曲は殺された」とされているようにみえる。
殺したのは、<みんな>=大衆、と解釈できる。
大衆の趣向の変化が歌謡曲を殺した。
だがはたして、そうか。
たとえばマスメディアにはこれに関して一片の疑惑もないといえるか。
<プロ歌手の圧倒的表現>とか<プロ作家の革新的創作力>は、ここでは具体性が欠けているが、それらが歌謡曲を育て維持してきたとして、なんとそれらは大衆の趣向で弱められたり、無視されたりするたぐいのものであった…。
<気持ちよく歌いやすい>歌を選択していくと、なぜ<プロ歌手の圧倒的表現力や、プロ作家の革新的創作力などは、むしろ邪魔になる>のか。
このあたりもちょっとわかりにくい。
革新的創作力というものがそうして無力になっていくというのはどうしたことか。
創作とは小なりといえども革新的であるはずだから、あえて革新的などというまでもないのだが、歌謡作家たちは、新たな(革新的)創作力を生む余地さえ失ってしまったというのか。
新曲は生産され、供給され、消費されているにもかかわらず…。
新しい楽曲が大衆にアピールするかどうかは、また大衆の選択によらざるを得ないけれど、すくなくとも革新の芽は絶えず萌え出ているはずである。
また、「いい歌だね」と評価される「聴き歌」というものがなくなったというのはほんとうか。
そもそも「聴き歌」から「歌い歌」、「踊り歌」へ進むという<本来の>とされる図式にすべての聴き手をあてはめるのはいささか乱暴ではないか。
歌がそれぞれ<並列>して在ると考えてはなぜいけないのか。
阿久悠の表現に倣えば、聴き歌が聴き歌としてあり、それが歌い歌になるかどうかは、個人的な趣味にゆだねられるもので、あるひとにとっては、聴き歌が聴き歌にとどまって満足させるはずである。だれもが歌ったり踊ったりへと歌をむずびつけるのではないし、個々の歌にとってもそれは同じことがいえる。
ひとつ作詞の世界を垣間見れば、単語に意味の違うルビを振るなど、文言の読み替えでお茶を濁す、逃げ腰、手抜きの表現が氾濫している。阿久悠がそうしていた、というのではなく、さいきんの詞を見渡せばそういうふうにいえるということである。
そしてこのことは、いわゆるカラオケで歌詞を見ながら唄う、という環境の常態化とも結びついているはずである。詞を読ませ、言葉の意味を膨らませる。つまり、歌を楽曲それじたいで完成させるのではなくて、それ以上の付加価値を押しつけているようにもみえる。
作詞家として潔しとしないところがある。
いまや、十代の子供だってそうした状況を把握し、美しい日本語の歌を聴きたいなどと新聞に投書しているのである。
プロは、片鱗でプロであることを証明するという。しかしそのかけらもなく、大衆に迎合するという姿勢、またはそのふりで、歌謡作家がわが身を守るというのでは仕方がない。
ほんとうにプロ意識というものがあったら、大衆に邪魔にされている、などとくよくよしているひまなどないはずだ。
「だれが歌謡曲を殺したか」と問うまえ、これが殺されたとするなら、どのように殺されたかを検証する必要があるだろう。
<犯人>探しよりもこちらのほうが大事である。
【補記】
音楽家のプロ意識、などと口走るのも、いまや時代錯誤かもしれない。
プロでも食えなくなった原因を尋ねられた坂本龍一教授はつぶやく…
「コンピュータの能力アップによってミュージシャンが実際に弾く必要が少なくなったことと、デジタル化+ネットによるコピーが原因です。」2010.11.30/Twitterより
2010.11.28