ゴミグモという名に関する個人的なゴミ問題

ゴミグモという名に関する個人的なゴミ問題



 ゴミグモ。
 この名前、なんとかならないか、とおもう。
 そのスジではCyclosa octotuberculata Karschだそうで……読めました
か?……文字を追って口でいってみると、gomi…よりひびきがきたなくな
ってなってしまう。
 Cyclosaは属名だから省略するとしても、つぎの文字列も、おくと……ち
ゅ? ばあきゅれいた? なんてくりかえしているうちに、まあゴミでも
いいか、と投げ出したくなる。

 ゴミグモになんでそんなにこだわっているかというと、ほかに今のとこ
ろこだわるものもないから、ととりあえずはいうほかない。
 しいていえば、晴れた日と雨の日ではクモの巣の構造がちがうとか、雨
があがると水分をせっせと捨てていくとか、いきなり未知の世界を垣間見
てしまったからかもしれない。

 もともと、マサキの垣根などに張られた巣の存在しか知らず、そこにど
んなクモがいるのか気にもしなかった。それが、あるブログの写真と記事
で、ゴミグモであり、ゴミに擬態し同化するのだと知った。
 クモの巣の構造の変化や、クモの排水作業については、日をついでこれ
を見ているうちに気づいた。
 そんなことでいささかの愛着もあり、ゴミ、ゴミ、と口にするのががな
んだか自分のうちでうっとうしくなってきたのだ。

 女性の名前は、呼ばれるためにある…ということばをどこかで読んでい
るが、これは男女の関係の機微に関する表現で、味も素っ気もない言い方
をすれば、べつに人間の、しかも女性ばかりが、呼ばれる、呼びかけられ
る、というものでもない。
 ゴミグモに呼びかけるというような趣味はないから、これに名前をつけ
ようとはおもわない。ただ、たとえば、
「なにを見ているのですか」
 とだれかにきかれたとして、
「ヘイタイグモです」(ジョロウグモでもいいが)
 と答えるほうが、
「ゴミグモです」
 と答えるよりもすこしは上等な気がする。なんだ、ゴミか、とそのひと
におもわれないだけ救われる、などとらちもないことをかんがえる。
 これはまったく個人的かつマニアックなゴミ問題である。

2008.7.1