ミポリンがきた日 小貝川の高須橋近くには二つの石碑が建っている。 高須橋は、ずっと龍ケ崎市だとおもっていたが、さいきん川の向こうの 藤代が合併で取手市になり、新しい標識が川のこちら側に立った。立ちか たが唐突な感じでめんくらったが、そのおもいは、そこに〈取手市〉とあ っていっそう強まったのかもしれない。 高須橋あたりは川の流れまるごと取手市ということらしい。 さて、石碑は小貝川決壊のしるしだが、それぞれ(昭和十年九月〉と〈昭 和五六年八月〉の文字が見える。 昭和十年(一九三五)は、生まれる前だから話にならないが、昭和五六 年(一九八一)は川崎市に住んでいて、決壊をじかには見ていない。 ただ、テレビでニュースを見た。新聞やラジオで実家のあたりは被害が ないとわかって安心はしたものの、町のようすがどうなっているか知りた くて、元住吉駅近くの電器店まで出かけていって、店頭に画面を映し出し ているのを見た。ニュースの時間を見計らって出かけたのかもしれない。 テレビの話をするのに、小貝川決壊をあたまにもってきたが、ながいア パート暮らしで、テレビを持っていなかった。テレビを部屋で見たいとい う気持がなくて、持たなかった。 だから、大はやりのピンクレディもキャンディーズも、呑み屋などで見 かけることはあっても、よくよく見るのは実家に帰ったときだけだった。 それだって年に一度ほどもない。 初めてのテレビは、詩人で翻訳家の中上哲夫さんから古いのをいただい たものだ。三十何インチとかというものだった。 そのときのじぶんの年齢を計算するのもめんどうだが、タレントの(歌 手が本業か)中山美穂が十七歳のころのことだ。どうしてそんなことを覚 えているかというと、姓がおなじ、なかやま、ということと、朝のテレビ でこのひとが「人生相談」みたいなことをやっていて、相談してくる視聴 者はおおかた彼女とおなじ高校生か、中学生だとおもうが、その歳で人生 相談のパーソナリティかと、おそれいって、印象に残った。ミポリンなん て愛称はしかたのない、こそばゆいもので、わたしにはわざとらしかった。 このひとももう、四十いくつかになるのだろうか…。顔など、忘れている ことにいま気づいた。 インターネットで調べたら、一九七〇年生まれだ。 三月一日の誕生日がきてもまだ三十九、いや、もう……というべきか。 ということは、一九八六年か七年ごろから、つまりわたしは四十をすぎ てから日常的にテレビを見るようになったのである。小貝川決壊から五、 六年のちのことだ。 テレビが部屋に持ち込まれたころのことを思い起こすと、同時に中山美 穂がテレビといっしょにやってきたような気持になるのもまただらしなく、 テレビそのものを象徴するようなへんな理屈へ行きつく。テレビが悪いの ではなく、おのれにしまりがない。 そのご、テレビがこわれては、ひとからのもらい物で過ごし、三台目か、 四台目か、さいごは十五インチだかいくつかの新品をミッドナイトプレス の岡田幸文さんにプレゼントされて、これが十四、五年持ったか、つごう テレビ視聴歴二十二、三年となる。 そして、去年九月なかばからまたテレビのない生活になって、五カ月が 経とうとしている。 2009.2.14