長崎は今日も天然にがりの雨だった 1/2
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長崎は今日も天然にがりの雨だった 1/2



   絹糸と絹ごしの区別がつかない人のために






 豆腐の話をするのにのっけから堅苦しい物言いになる。
 豆腐をつくるさい、硫酸カルシウムやグルコノデルタラクトン(グルコ
ン)などの薬品を凝固剤としてつかうと、短時間で効果を発揮して手間が
はぶけるらしい。
 そのとき、水もいっしょに固めてしまうそうだ。
 天然ニガリを使った場合に比べ、同じ量の大豆が約2倍の量の豆腐にな
る。
 安い豆腐があったら、そういうことかもしれないといちおうは知ってお
いたほうがいいかもしれない。
 水もいっしょに固めるというものの、ある成分表によると、水分の量の
差は百グラムに対して絹ごしが八九・四4グラム、木綿が八六・八グラムと
いった程度の差しかない。それでも舌は敏感に感じとるということだろう。
 絹ごしというけれど、絹などは使われていないことは広く知られている。
見た目、舌ざわりで、そう称せられるとか。わざわざ絹を使っているとい
うものもあるらしいが、どういう使われ方をしているかまでは当方、承知
していない。

 絹ごし、といえばこうして、豆腐をイメージするけれども、だれかが、
絹ごしの雨、といっているので、めんくらった。
 絹ごしの雨とはいったいどんな雨なのか。
 絹糸のような雨、は常套句といっていい。あるいは絹の雨といったりも
するか。絹がどんなものであるか知っていればイメージできる。絹を知ら
なければ、その人にとってどんな雨なのかわからない。まあ、おおかたの
日本人になら通じるだろう、というところが常套句のゆえんだ。
 これを詩作品などに用いれば、ありきたり、平凡とされる。
 文章の意味をいちいち考えさせるようでは散文としてはまずいけれども、
それでも表現の発見や発明が読者の心をつかむ重要なポイントになる。
「絹ごしの雨」は発見か。
 さきに豆腐をイメージしたら、このあとにつづく「雨」は、どんな映像
になるのか。
 ちょっと、こまる。こまって、先へ進めない。

 雨をひとまず視覚のイメージとする。奇特なひとがいて、味覚をイメー
ジするとしても、ごく少数派だろう。だから雨を形容するのであれば、視
覚に訴えるのが表現の基本となる。これに味覚の形容を持ち出せば、話が
こんがらかる。ざれごとをいえば、雨ではなく飴になってしまう。