長崎は今日も天然にがりの雨だった


絹糸と絹ごしの区別がつかない人のために



 豆腐の話をするのにのっけから堅苦しい物言いになる。
 豆腐をつくるさい、硫酸カルシウムやグルコノデルタラクトン(グルコン)などの薬品を凝固剤としてつかうと、短時間で効果を発揮して手間がはぶけるらしい。
 そのとき、水もいっしょに固めてしまうそうだ。
 天然ニガリを使った場合に比べ、同じ量の大豆が約2倍の量の豆腐になる。
 安い豆腐があったら、そういうことかもしれないといちおうは知っておいたほうがいいかもしれない。
 水もいっしょに固めるというものの、ある成分表によると、水分の量の差は100グラムに対して絹ごしが89.4グラム、木綿が86.8グラムといった程度の差しかない。それでも舌は敏感に感じとるということだろう。
 絹ごしというけれど、絹などは使われていないことは広く知られている。見た目、舌ざわりで、そう称せられるとか。わざわざ絹を使っているというものもあるらしいが、どういう使われ方をしているかまでは当方、承知していない。

 絹ごし、といえばこうして、豆腐をイメージするけれども、だれかが、絹ごしの雨、といっているので、めんくらった。
 絹ごしの雨とはいったいどんな雨なのか。
 絹糸のような雨、は常套句といっていい。あるいは絹の雨といったりもするか。絹がどんなものであるか知っていればイメージできる。絹を知らなければ、その人にとってどんな雨なのかわからない。まあ、おおかたの日本人になら通じるだろう、というところが常套句のゆえんだ。
 これを詩作品などに用いれば、ありきたり、平凡とされる。
 文章の意味をいちいち考えさせるようでは散文としてはまずいけれども、それでも表現の発見や発明が読者の心をつかむ重要なポイントになる。
「絹ごしの雨」は発見か。
 さきに豆腐をイメージしたら、このあとにつづく「雨」は、どんな映像になるのか。
 ちょっと、こまる。こまって、先へ進めない。

 雨をひとまず視覚のイメージとする。奇特なひとがいて、味覚をイメージするとしても、ごく少数派だろう。だから雨を形容するのであれば、視覚に訴えるのが表現の基本となる。これに味覚の形容を持ち出せば、話がこんがらかる。ざれごとをいえば、雨ではなく飴になってしまう。
 食べるものではないから、味覚のイメージと結びつけてはいけないということはない。食べものでもないのに食べたらおいしいのではないかと思わせるものなど、いくらでもある。いちいちここには列挙しないが、そんなふうに見えれば比喩としての可能性を得る。絶対に食べてはならないものにだって食べもののたとえがつく。りんごのようなほっぺた。マシュマロみたいな何々。

 ものの見方に個人差があれば、比喩にも個性が生じる。それが受け入れられるか否かもまた個人差がある。いっぽうで受け入れられ、いっぽうでは拒絶される、これはしかたのないことだ。
 しかし、「絹ごし」を視覚としてとらえるとしたら、考えられるイメージから豆腐をはずすと、ほかになにがのこるか。
 しかも、絹ごしの雨という表現には、先行する「絹糸の雨」がまといつくだろう。「絹糸の雨」が確固たる表現であることにあらためて気づかされる。「絹ごしの雨」は、いいかえ、舌足らずなものまねにみえる。

 ある歌手のものまねをして、本人よりも上手に唄ってしまうものまね芸人もいるが(星ナントカ嬢)、まじめに評価すれば、ものまねとしては似ていない、という評価になる。似ているかどうかなど吹き飛ばして、歌はだんぜん星嬢だ、ということにもなる。
 文章の表現だって、基本はこれと変わりない。絹の糸の雨に似ないで、しかも絹糸の雨よりも魅力的だ、というのが求められるべき創造的表現であり、書き手が求めるべき表現であるはずなのだ。
 当人は、いいかえなんかではないと主張するかもしれないが、いいかえ、ものまねと見えたってそれ自体はたいした問題ではない。

 表現について視覚的イメージに固執するとしたら、それもまちがっている。
 しかるに書き手は感覚的表現として雨を語る。
 味覚はおくとしても、聴覚、触覚、あるいは嗅覚さえも動員させて雨を語り始める。

 書き手はこころみるべきであろう。絹ごしの雨、をべつの言いかたで表現したらどうなるか。
 そして自問してみるといい。絹ごしの雨が自分が思っているとおりの雨であり、思っているとおりに読み手にも伝わる、といいきれるか。

 冗談としてなら使えるかもしれないとおもう。文学、文章についてうんぬんする場所ではなく、お笑い演芸のネタ話としてである。そのさいは、見た目ばかりではなく、味覚の要素もとりいれる。豆腐そのままの雨でよろしい。笑いがとれるかどうかは芸人の腕次第ということになる。
 ついでにいうと、交通事故かなにかで人の頭がつぶれたのを目撃したとしよう。脳が頭蓋骨の外へ出ている。いわゆる脳みそだ。これをつぶれた豆腐にたとえた作家がいる。ここでは冗談が通じない。

2008.7.11