のぼりの「ち」 十字路の停止信号で自転車がとまる。 自転車のうしろに乗ったこどもが声を出す。 「ち」 「えっ」 ハンドルを握った母親は驚き、上体をこどもへ向けてひねる。 「どこ。どこか、血が出ているの」 「ち」 「だから」 「ほら、あれ。ち」 こどもが指差す。 めがね店の前、歩道ぎりぎりにのぼりが何本も立ち並んでいる。棹にの ぼりが細くからみついていたりする。いま、風はない。 「なんだ」 すこし気が抜けたように母親がいう。 「ちしか読めないわけじゃないでしょ。ほちょうってかいてあるでしょ。 ほちょうきって書いてあるのよ」 補聴器がひらがなで書いてある。 こどもは、棹に絡まったのぼりが<ち>の字ばかり際立たせているのを 読んだのだ。 「こっちは、さ」 「なにいってるの」 「さ」 「いやあね。うらから読まないでよ」 「でも、さって読めるよ」 「読めても読まないの」 母親はうんざりした声を出した。 「読めるのに」 こどもは食いさがる。 2010.12.1