ときどきもげる尻尾について こどもじゃあるまいし、とおもうのだ。 使わないコタツがある。季節が季節だから使わないというのではなくて、 新しい尻尾、とことばだけで聞くと、ぴかぴかの、というイメージかい? それとも生まれたてそのまま、ぬめぬめとして、なまなましい、というイ メージかな? だがどうも、じっさいに見ているひとの反応は、そんなふうではないらし い。 本体―つまりオレ自身の大部分―がどう評価されているか、たいそうここ ろもとないけれど、他人にとって、オレと尻尾とが一体だなんておもえない ような、おもいたくないようなしろもののようだ。 本人が見たことないのだから、なんとも説明がむずかしい。 とってつけたような、といえば多少は色気があるものだ。 とってつけたようなごあいさつといえども、あいさつの意味をそこなうこ とはない。真剣みがない、誠意がないと批判されようとも、あいさつのしか たが問題なのであって、あいさつがなかったというのではない。ないほうが いいあいさつだと物議をかもしても、あいさつがあればこそだ。 そういうことと似ていて、尻尾だって、全体の意味だの価値だのをそこな っては元も子もない。 尻尾が生えるということは、弁解がましくも、とってつけたような尻尾を 持つことなのだが、周りのめつきは、なければないほうが身のためだ、とい っている。 だから、 「あ、いま、もげた」 という、ときどきおとずれる、感覚はわるくない。 すこしのあいだ、身も心もさっぱりとする。 2009.2.17