スーパーマーケットでポットに入ったトマトとナスの苗を二個ずつ買い、プランターに移し替えた。
こういうものを育てるのは初めてのことだ。
はたしてこの夏、自前のトマトとナスを食べられるか。
小さな庭の草花への水やりは日課になっているから、ともあれ水だけは忘れることがないだろう。
その日は、朝の水やりをすませてから裁判所へでかけた。
地方裁判所は町のほぼ中心地にある。
商店街とは名ばかりの、シャッターを降ろした家が続く通りに面して粗末な石の門柱が口をあけ、門柱の一方に、
〈M地方裁判所R支部〉
と、プレートがはめこまている。
木造モルタルの建物は古びて威厳もなにもないが、それでも訪れる者を気さくに迎える風情ではない。
ここへ足を運ぶ理由がなんであれ、それぞれの胸のうちの錘をより重たく揺さぶる場所である。
?
さてまずはじめに、裁判所で働く人間がこぞって法律に明るいというわけではないことを思い知らされる。
カウンター越しに用件をいうと、職員はすぐさま後ろを見て
「課長!」
と呼ぶ。
やってきた課長に用件をくりかえすと、信じがたい答えがかえってくる。
課長はなにかしら誤解している。
用件のポイントを強調する。
うなずいて、いったんむこうへひっこんだ課長が再度あらわれたときは、分厚い法令集を携えていた。
「二階の部屋を使って、読んでください」
?
訴えを起こすにあたっていちおうある程度の知識は得ており、さらにその先へ歩を進めるために裁判所へ来たのであったが、あろうことか一歩も二歩も押しかえされてにわかに疲労をおぼえ、やむなくひとり二階への階段を上がっていく。
?
指示された部屋には入らず、二階ロビーの長椅子に腰を下ろす。
できることなら一分だって長居したくない場所に、まるでだれかと待ち合わせをしているかのような自分を据えつける。
絶え間ない争議のるつぼであるはずの所内が森閑としている。
そう、どこかの壁の向こうでは、訴えたやつと訴えられたやつが死闘をくりひろげているのだ。
その壁のひとつに風景画の額がかざられている。
たとえばロシアの田舎だろうか、雪が消え残ってぬかるんでいるような道と、葉のない立ち木、そして一軒の石造りの平屋建ての家の乳白色の壁。
人影はおろか、生きものの姿はない。
家には一枚の木のドアがついている。閉ざされているが、しかし中から話し声が聴こえてくるような気にさせるのはなぜだろう。
?
膝の上の分厚い法令集を腰の横におくと、長椅子に沈めたからだがその重みでいっそう沈む。
そのときまるで険悪な人物に剥ぎ取られでもしたかのようにドアがひらく。
炎のいろが部屋いっぱいに揺らぐのがみえる。
しかし恐怖心をかきたてる炎ではない。
それどころか、部屋になじんだ生命力だの幸福だのが、外からやってきてそれらを台無しにしようとする悪鬼を一気に呑み込んでしまう強さやさしさがある。
暖炉の奥にもう一つのドアがあって、そこをあけると上階への階段がある。
?
法令集をロビーの長椅子におきっばなしにしたまま、さっきよりは狭い木の階段を上がっていく。いくつもの踊り場をすぎ、さらに階段を上がっていく。絵の中のあれは平屋だったが、なにか建物を見落としていたのだろうか。塔のようなものがどこに隠れていたのだろう、厚い雲にまぎれていたとか。
ふいに、子どもたちの勝ちどきらしい声があがる。階下からのようにも、外からのようにも聴こえる。小学校は低い丘をひとつ隔てているから、風の加勢があってもそこから聴こえてくるとはおもえない。ついでかすかに歌声がはじまる。裁判所にやってきた人間がどんなに能天気だからといって、建物のなかで放歌高吟するということもあるまい。それにあれはやはり子どもの歌声だ。
額縁の絵のなかのだれかが唄っているのかもしれない。人影こそ見えなかったが、歌声はあのあたりからあふれてくる。はじめは二人か三人それぞれ勝手にメロディを口ずさんでいたのが、やがて唄う声が増え、ひとつのメロディへと掬われていく。あいまに勝ちどきの声がとどろく。
「にせの唄が流れてくる」
とつぶやいてみる。
?
歌声に押し上げられているのだと悟るのが遅かったかどうか。最上階には小窓だけがあって、いきどまりである。けっして開いていたことがない(となぜか断言できる)窓が、きょうにかぎって外側へ押し開かれている。
ハーモニーに加わる快感に、からだがふわりと浮く。
トマトの夏ははるかに遠い。
2010.11.25