鰐組総目次について 鰐組総目次は、まだミスが多い。誤植がある。ことに名前に誤字がある のは重大だから、なるべく早いうちに訂正しなくてはいけない。 それから、ミスを犯している危険がもうひとつある。 おおむね各号の目次を写しとったのだが、目次そのものがない号がたび たびあって、それはぺージをめくって書き取っていくほかない。目次も 完璧ではない。たまたま、あとがきを懐かしがって読んでいて、そこに <前号で目次からだれそれの名が脱落していた>なんて出てきたのだ。そ ういえばそういうこともあった…と、あとになって出てきたひとをあわて て付け加えることになる。 さて、しかし、それ一回限りだったかというと、ちょっと自信がない。 だいたい、作品に誤植があっても言ってこない寛大な人もいるくらいだか ら、目次に名前がないと目くじらを立てる人はまずいない。それで叱責を 受けた記憶もない。だから、作品を書いているのに、目次に出ていない人 がほかにもいる可能性がある。 編集人が同時に実作者であるというのは、こうした小雑誌のいやなとこ ろだ。ペンネームを使う手もあるが、姑息である。(といいながら、実は いくつかペンネームを使い、そのうちの一つは女性名である)…きれいで ない、いさぎよくない。が、商業誌でもないし、と、自らに甘い判決をく だす。 ただし、と弁解がましいことを付け加える。鰐組でしていることを、編 集の仕事などというのは、おこがましい。『早稲田文学』の編集室で、何 年間か、編集者かたぎというものにじかにふれてきているから、それくら いはわかる。かれらと並べられたら、こちらはただの印刷屋である。 では、<編集人>と冠をかぶってきたのはなぜか。 これはまあ、そこにそうした冠がころがっていたから、というほかない。 かぶってみたくて、かぶったのだ。おかしいじゃないか、とだれもいわな かったし、いい気分のわたしは、カッコイイとはおもっても、分が過ぎて いるとはかんがえなかった。 ただの<発行人>でも間に合ったかもしれない。いまごろ気がついても 取り返しがつかない。 2006.7.18