兇器Lについて 《手》を消す。 兇器・物Lの最終的な目標は、《手》を消すことである。 道具の、《手》への侵襲は、われらよりもはるかに孤立するだろ うことは明らかだった。 《手》を消すことは、兇器の道具としての復権であり、それにはま ず《手》から離叛することだ。すでにあったものへと回帰すること だ。これから起ることは、これまでになかったことである必要は、 まったくない。もし、それをする勇気さえあれば、すでにあったこ とを、そっくりそのまま繰り返すのだ。それが道具である。妻殺し から、納屋の隅へと遡行し、ふたたび納屋から母屋へ妻を殺しに… …。それは、兇器から道具へのより良き道であるだろう。あるとき ふいに妻殺しを断念するかもしれないのだ。 ル・クレジオはつぶやいた、《理由はあとからやってくる》 われらはこれをさらに劇しく正確に銘じなけれはならない、理由 は永遠にわれらに追いつくことがない、と。 われらは、理由とのかくも頑な訣別を、反古にしたりしないだろ う。手や夢へ、夜闇にまぎれて帰って行ったりしないだろう。 兇器・物Lは、あらゆる理由の《手》から巣立つのだ。 兇器・物Lの飛行の構造から、生爪のように空が、空間が欠落す るだろう。飛行から存在へ、体温から納屋へと、物Lは旋回する。 空想は歩き出せない、飛行の構造にあの《白っぽい》時間がこみあ げる、空想は汚物でいっぱいだ。 物Lの飛行は、いっそう音楽へと接近するだろう。そして、ピアニ ストのそれのように、《手》は一個の音符へと解消されるだろう。 (われらが手を失ったのではない。手がわれらを見限ったのだ) それからのち、物Lは、われらの行為の構造として、鈍く光って いるにちがいない。