回転家族の食卓 蝿がえがく曲線の円心へむかって、テーブルは現象する。この多 角的な、縁辺の不明瞭なテーブルの不潔さかげん! 腐敗する物Jは、ゆるゆると翼を伸ばしはじめた。飛び立つにし ても、どこへ? 蝿の無目的な飛行が択びとったテーブルの形態は、火災のごとき ものであったために、無限な融通性を備えていた。食事をとる家族 のうしろ姿は、どれも火急でありながら、かつ、いまや生を断念し たかのように動じない。かれらもまた蝿だからだ。 腐敗する物Jは、テーブルの形態や蝿の属性とはかかわりなく、 いかなる手、いかなるまなざしをもはねかえし、むしろ積極的に潔 癖である。それは、絶えざる発熱、あれからこれへ、ここからそこ への、色彩の移行、におい、かたちの変遷、退行のうちに、あの融 通性とは明らかに対立する独断の姿勢を保つ、誇り高き腐敗である。 物Jの表情を、われらは、しばしばまのあたりにし、それを物J のすべてであるかのように解釈するが、発熱から発汗への音階的過 程に捉えられ呑みこまれた結果の、われらの判断の愚昧さをこそ、 飛び立てぬ腐敗とみなすべきである。 すなわち、《無表情》という表現が迫ろうとした表情のまえにあ っては、われらは何者でもない。無として、なおかつ、《見る・見 た》という屈辱、むずがゆさ、嘔吐感を背負いこむ。 だが、はたしてそれが事実だろうか。 事実は断じてこのようなわれらの思い入れを許しはしないだろう。 嘔吐さえも、われらの慾望に根ざしているのだ。 しかるに事実へのわれらのいとけない秋波は、それを《見ない・ 見なかった》として、屈辱、むずがゆさ、嘔吐感をこらえる必死な 自己欺瞞に自らを幾重にも呪縛するのである。 《無表情》が限りなく接近するところの表情が、腐敗する物Jの 一瞬の現象を示すにとどまり、あのテーブルの淫乱でさえある融通 性が蝿の属性にとどまるならば、それらに共通する限りのなさとは、