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三代目はシャワーがお好き

 




  ■1■


 道をひょこひょこ歩いていたのが、ふと立ちどまり、一瞬、からだをふくらませたかとおもうと、またまたひょこひょこ歩いてくる。
 いま立ちどまったところに、躰から排出した白いものを残して。
 尾篭な話だが、これが、三代目よしろうが見せた最初の印象的な姿だ。あたりまえの羽のあいだからところどころに産毛ふうの和毛をはみださせていて、それだけでもなんだか鳥として頼りなげにみえる。
 ややO脚で、カラダを左右に揺らして歩く。そうしてアスファルトの路地を歩いていて、立ちどまり、腹部をふくらませた。あとになって思い出してみると、肩のほうにも力がこもったような気がする。ああしてかれらもいきむのか、とちょっと人間くさいものを感じたのだ。いや、ひとも鳥もあの行為にはたいして変わりがないというべきか。
 しかし特筆すべきか、かれらはえさ場をフンで汚すことはない。スズメだのサギだのウだのとは違う。
 
 前年の秋、二代目よしろうに連れてこられてきたときは、さいしょからものおじせずに近づいてきた。初代、二代と、親の血を引いて、人(とはわたしのことだが)に対する学習が遺伝子にしっかりと組み込まれたか。
 しかしそれぞれ、なつき方に個性があり、なついたかにみえても、多くはそういうことなく目の前から去っていく。
 なついたものを、何代目と勝手に称しているが、縄張り争いのようなことはしょっちゅう繰り返されているから、初代から二代目にかわったときは、はたして親から子へ代替わりしたのかどうか、あいまいなままだ。
 ただ、血のつながりをおもわせる事実がある。初代の個性が、二代目以降にもあらわれたことだ。
 
 からだの大きさを除けば、どのキジバトも似ていて、容易に区別できない。なついたものとそうでないものを見分けるのも困難である。そのため二代目のときには、いちどだけ、ほかと区別するのに容易にと、足指にマジックインクで色をつけた。野生のハトがそんなことをたやすくやらせてはくれない。手に乗ってエサをついばむようになってからの試みである。それでも野性の感覚はするどく警戒する。まず、マジックインクの容器になれさせなくてはいけなかった。
 そんな印が役に立ったかというと、そうでもない。なれの度合いが強まればそれだけで目につくからだ。

 初代よしろうの決定的な個性は、エサに好き嫌いがあったことだ。

 



 トウモロコシ、マイロ、サフラー、ナタネ、麻の実など十種ほど配合された市販のエサを軒先に出しておいて、グリーンマッペ(緑豆)だけが残っていれば、初代がやってきたのであり、すべてきれいに平らげていれば、別のハトがやってきたのである。 なつかせるのにも都合のいい個性であった。どのハトにも愛想よくする必要がなかったのである。人間が八方美人では、かれらのテリトリー争いがふくざつになるばかりだ、と根拠の不確かな、稚拙な論理だ。
 もちろん、手のひらに載るようになってからも緑豆だけは手に残った。
 二代目は好き嫌いがなかったが、二代目から三代目、あるいは三代目から四代目に替わるときだったか、やってきた幼鳥の一羽に、緑豆を食わないのがいた。これはなつかずに、いつのまにかいなくなった。



  ■2■


 げんざい、〈よしろう〉は五代目になるが、個体の見分けのつかないキジバトのなかにも、あたまの赤っぽいのがたまにでてきて、三代目がそうであった。
 人間でいえば赤毛、あるいは茶髪だが、これがオス、メスの区別だったらまことにわかりやすい。しかし、性別とは関係ないようだ。
 キジバトの親は、雌雄交替で卵をあたためるとのことだが、まず、つがいでエサ場にやってくるというのは短期間だし、熱愛のようすを見ることはあるものの、つがいがそろって子どもをつれてくるということもない。
 一部に、キジバトのつがいは、いつもいっしょにいる、などと説明があるけれど、拙宅をエサ場にしている代々のよしろうは、ことばをくりかえすが、二羽でいる期間はみじかく、いずれかならず相棒を突き放してエサ場を独占する。

 緑豆ぎらいは、遺伝かもしれない。
 そして遺伝的なものといえば、まず、なれなれしく近づいてくること、ひとの手に載るまでが、代を重ねるごとにわりあい容易になってきたことなども、遺伝もしくは、専門家みたいないいかたをすれば、《刷り込み》によるのかもしれない。
 しかし、シロウトの印象で、遺伝、刷り込みなどと、かんたんにきめつけるわけにはいかない。
 親に連れられてきた子は、はじめはどれもみなひとを恐れるからである。はじめからひとになれなれしいキジバトなどいてはおかしいし、そう

 



いうことをのぞむのは、自然の摂理に反するだろう。
 遺伝、刷り込みなどの観測をくつがえすかのように、子はどれもひとを
恐れるのだ。そうして学習の第一歩が、いまから始まるといったほうがより正確なのだとおもう。

 では、どのように、子はひとになれていくのか。
 ひとつに、親の《配慮》がある。
 親子に向けてエサを撒いてやる。ひとがそこにいれば、子にとっては脅威であるから、エサになかなか近づかない。親がエサをついばみ、脅威が遠のいてから、子はやっとエサに近づく。
 親の配慮というのは、脅威に対する子への気遣いのことだ。
 子が、わたし(脅威)がいるためにエサに近づけないばあい、親はみずから、わたしに近い位置へと移動する。そうして親はひとに背をみせながらエサをついばみ、子にエサをとらせる。つまり、脅威から子を守るために、みずから脅威に接近する。親は、子のために脅威に対する壁となる。図式的にいえば、脅威―親―エサ―子、という直線的な配列になる。
 これは、代々のよしろうが例外なくみせてきた親の《配慮》である。

 たんなる情緒としてかたづけられない、こうしたきめこまやかさをもちながらも、だからこそか、熾烈な縄張りあらそいは親子のあいだにもあって、子育ての期間はともかく、長期間、エサ場を親子で共有することはない。
 侵略はあっても、譲渡はない、とみるべきか。
 初代も二代目も、けっきょくは子を追い出し、二年ほど、あるいはそれ以上、同じエサ場を確保した。



  ■3■


 三代目もまた、二代目からすんなりとテリトリーを奪取したわけではない。
 梅のつぼみがふくらむころ、二代目をふくめ、いっときは四羽があらそうかっこうになった。
 そこに一羽だけ頭部の羽毛がほかのハトより赤っぽいのがいた。よくよく見れば赤みを帯びているのは頭部ばかりではなく、胸のあたりも赤毛っぽい。初代、二代と、そしてかれらが連れてきた子らと照らしても異質である。色合いで、一目でほかのハトと区別できる。

 



 それで、どうせなら一目でそれとわかるものが居ついて、三代目になってくれればいいのだがと手前みそな期待をかけた。 といって、ことさらほかのものを追い払うという愚はおかさない。
 形勢が落ちつくまでは、初代をなつかせることに成功したときのように、わが身をはかないものにして、からだを縮め、息をころし、成行きを見守るのである。

 ある日、巣から落ちたらしいカラスの子を丘の斜面に見ながら、しばらく親ガラスが啼きわめいた。上空を旋回しながら、あるいは電柱のてっぺんにとまって。
 ハトどもはカラスの声におびえながら、かつ、エサ場獲得のあらそいにも余念がなかった。まだカラダが成長していない子バトの赤毛にとっても、のるかそるかの正念場である。こんな子どもでも闘争心は備わっている。

 二代目と、その子孫とおぼしい赤毛、そして、新来のといっておくが、べつの二羽と、つごう四羽、くんずほぐれつのあらそいは四、五日続いた。
 どれもこれもそれほどひとをおそれない。というより、とりあえずは目のまえの同種の敵を排除することしか頭にないのかもしれない。
 できれば赤毛に居着いてほしいとおもいながらも、わたしはどのハトにも気があるそぶりをして、エサをやった。
 わたしの目は〈赤毛いのち〉といちずであったが、早々にあらそいからしりぞいてしまったのも、赤毛であった。テリトリー獲得のあらそいから脱落したとみえた。かたわらの暴力ざたにふるえあがっているようにもみえた。
 二羽、三羽が道端でくんずほぐれつしているさいちゅう、赤毛は生垣のほとりにひそんでじっとしていたり、梅の枝にとまって目立たぬふうをしていた。
 そうこうするうちに一羽が消えた。
 さいしょに消えたのが、どうやら二代目のようだ。二代目は、新来の二羽に集中的に攻撃されて、追い払われることになったのかもしれない。
 それから、ひとしきり新来同士のあらそいがあった。
 赤毛は相変わらず、二羽とはかかわりあわないふうをしていた。
 それから、ことは急展開をみせる。新来の二羽からあらそいの熱気がようやく去ったかともうと、なんと、向かいの電線で睦み合っているのだ。それからその二羽は、エサ場なんかどうでもいいや、なんてことはないとおもうのだが、どこかへ立ち去った。 あの、すさまじいほどのくんずほぐれつは、なんだったのか。

 



 どうしてこういうことになったのか。
 カップルになってどこかへ飛んでいってしまうやつらが、なぜ赤毛の親から餌場をとりあげたのか……まるで赤毛のためにそうした、というかっこうである。
 それともあのあらそいには、配偶者獲得の争奪戦でもあったのか。
この十年あまり、キジバトを見てきての印象だが、カップルになる前に餌場をめぐってあらそうのはきわめてふつうだ。そしてカップルになってから、エサ場はどちらかに独占される。

 赤毛はけっきょく、だれともあらそうことなく、エサ場を手に入れたようにもみえる。
 赤毛のテリトリーにかける果敢な姿を見ることはなかったが、ともかく、二代目のおもわくと人間の勝手なおもわくが一致したかのように、赤毛がのこったのだった。


  ■4■


 三代目もまた、二代目からすんなりとテリトリーをわたされたわけではない。
 梅のつぼみがふくらむころ、二代目をふくめ、一時は四羽があらそうかっこうになった。そこに一羽だけ頭部の羽毛がほかのハトより赤っぽいのがいた。よくよく見れば赤みを帯びているのは頭部ばかりではなく、胸のあたりも赤毛っぽい。初代、二代と、そしてかれらが連れてきた子らと照らしても異質である。色合いで、一目でほかのハトと区別できる。
 それで、どうせなら一目でそれとわかるものが居ついて、三代目になってくれればいいのだがと期待した。
 といって、ことさらほかのものを追い払うという愚はおかさない。そんな姿をハトどもに見られてはいけない。かれらがエサ場の確保を断念し、ここには近づかなく寄りつくこともなくなるからだ。
 形勢が落ちつくまでは、初代をなつかせることに成功したときのように、わがニンゲンの姿をはかないものにして、からだを縮め、息をころし、成行きを見守るのである。

 ある日、巣から落ちたらしいカラスの子を丘の斜面に見ながら、しばらく親ガラスが啼きわめいた。ハトどもはカラスの声におびえながらも、エサ場獲得のあらそいに余念がなかった。まだカラダが成長していない子バトの赤毛にとっても、のるかそるかの正念場である。

 




 二代目と、その子孫とおぼしい赤毛、そして、新来のといっておくが、べつの二羽と、つごう四羽、くんずほぐれつのあらそいは四、五日続いた。
 どれもこれもそれほどひとをおそれない。というより、とりあえずは目のまえの敵を排除することしか頭にないのかもしれない。それでいっそうエサ場の争奪戦を壮絶なものにしていたようだ。
 できれば赤毛に居着いてほしいとおもいながらも、わたしは八方美人ぶりを発揮してどのハトにも気があるそぶりをし、エサをやった。
 わたしの目はまるで〈赤毛いのち〉といちずであったが、早々にあらそいからしりぞいてしまったのも、赤毛であった。脱落した、とみえた。かたわらの暴力ざたにふるえあがっているようにもみえた。二羽、三羽が道端でくんずほぐれつしているさいちゅう、赤毛は生垣のほとりにひそんでじっとしていたり、梅の枝にとまって目立たぬふうをしていた。 そうこうするうちに一羽が消えた。
 これがどうやら、二代目のようだ。二代目は、新来の二羽に集中的に攻撃されていることもあって、まっさきに追い払われることになったのかもしれない。
 それから、ひとしきり新来同士のあらそいがあった。
 赤毛は相変わらず、二羽とはかかわりあわないふうをしていた。
 それから話は急展開をみせる。新来の二羽からあらそいの熱気がようやく去ったかともうと、なんと、向かいの電線で睦み合っているのだ。それから二羽ともどこかへ消えていった。
 どうしてこういうことになったのか。カップルになってどこかへ飛んでいってしまうやつらが、赤毛の親から餌場をとりあげたのはなぜなのか。まるで赤毛のためにそうした、というかっこうである。
 カップルになる前に餌場をめぐってあらそうのはきわめてふつうである。これはこの十年間、キジバトを見ていての確証的な印象だ。そしてカップルになってからエサ場はどちらかに独占される。つるんでエサをあさるのはせいぜい数週間だ。
 赤毛はけっきょく、だれともあらそうことなく、エサ場を手に入れたのか。あるいは、カップルとなって消えた二羽に、じぶんにはここを引き継がせる子があることをあのような形で主張し、おもわくどおりの結果となったのか。 赤毛の果敢な姿を見ることはなかったが、ともかく、二代目のおもわくと人間の勝手なおもわくが一致したかのように、赤毛がのこったのだった。

 いいかたをかえれば、赤毛は労せずしてエサ場を手に入れたのである。二代目は少なくとも親と闘い、自活の力を親に見せつけてからエサ場を獲

 



得していた。
 その二代目が子をひきつれて二羽を相手に奮闘しているあいだ、子のほうはまるで高みの見物のかおをしていた。これが知恵だとしたらすごい。
だがじつは、臆病なだけなのだ。
 目のまえにエサがあっても、なかなか近づこうとしない。馴れずに去っていくものにさえ、もっと大胆なのがいる。ひとの手から啄むのもおっかなびっくりだ。これこそ馴れずに去っていくのではないかとおもわせた。
 しかし食ったあとは、まったく平気なようすで周りをうろつく。初代も二代目も、食い終えると水を飲み(これはほとんど例外がない)、それから向かいの電線だの、どこかの家のアンテナなんかにひととき止まっていたりするが、長居はしない。三方の丘のいずれかへ立ち去っていく。
 赤毛はちがう。やがて梅の木の枝に気に入りの場所をみつけ、長いときをそこで過ごすようになった。

 秋おそくに親につれられて来てから、なついて、手に乗るようになるまでに、花は梅も桜も終わっていた。はじめてて名づけて名づけた初代にしたって、二ヶ月かそこらで手なづけたはずなのに。

 夏のある日、陋屋の手狭な庭の草花にホースで水をやっていると、三代目が迷惑そうにツバキの幼木やハマギクのあいだを歩いて路地へ出た。それほどあわてたそぶりではなかったので、たわむれにホースの水を向けたのだ。
 それが偶然にも、赤毛の嗜好を発見することになった。
 猛暑が続いていた。稲が暑さにやられて凶作となった年である。
 シャワーの水を受けた三代目が、そのまま路地で立ち止まったのだ。
 羽をひろげて陽にさらす姿は日常的に見ているが、それと同じ格好でホースの水を浴びる。公園にたむろするドバトが噴水のある池で水浴びをするのは見るけれど、ちょくせつ噴水を浴びたりするものなのかどうか。
 もともとめったにひとになつかない野生のキジバトが、一方の羽をひろげ、ひとが差し向けるシャワーを浴びる。うっとりしているようにみえるのは、ときどき半眼になるからである。それから一方の羽に交替する。井戸用ポンプで汲みあげた地下水は摂氏15度強。長く浴びるには、ひとには冷たすぎる。
 連日の猛暑で、チャンスと見るやシャワーを浴びせてやる。大の気に入りで、こちらがあきてしまうくらいいつまでも浴びる。

(2009.2)