建築と音楽 蜘蛛に噛まれながら鉄の階段を登る。高所恐怖症である。建築から 建築へ揺れることができない。蜘蛛は揺れている。わたしはすこし 狂って、蜘蛛を揺らしている糸をたぐり寄せようとする。 眼下の街にあかりがともる。高さが和らぐ。しかしすでに多くの器 は十分に傾いている。わたしの足には吸盤がない。吸盤に代わる筋 肉もない。かたわらに余剰の鉄とコンクリートがあるが、わたしを 固めるには人手が足りない。そもそも人がいない、いるべき場所で もない。すそのほうはカラカラにかわいて丸まってきている。あれ にいずれ丸め込まれるのだろう。そのまえに鉄柱が曲がり、コンク リート破片がわたしを打ちのめすかもしれない。 足もとで、もっと底のほうで、シャッターをおろす音がする。まだ おろされていなかったシャッターがある、かすかな安堵と快感。ガ ラガラと胸骨にひびく。ためいきが声になってもれる。楽器のわた しがよみがえる。もうひとりのわたしがわたしからむっくり起きあ がる。たがいの腰骨がぶつかり合う。建築から建築へボルトを通す。 やがて複数のわたしが扇状にうち広がる、虫食いだらけのわたしが。 屋号のわたしがネオンをともす。凍てついた文字が溶けて流れる。 蜘蛛の糸のようにたなびいて葦の先から伸びては消える。溶けてい るものを読み解くのはかなわぬが、屋号のわたしがきらきら光る。 楽器のとんぼや。とんぼやのショーケースのハモニカ。ビロードの 産着につつまれて、つる草をからませていた金属の細く薄い歯。わ たしがくわえると、歯をたてた楽器。わたしたちは喧嘩でもするよ うに噛み合った、ときには甘噛みを、暗い家の階段の下で。稚拙な 音楽は二階の下宿人の耳にも届いていたはずだ。高校教師のもとに 女生徒がくる、男と女のもやもやが階段から降りてくるけはいに心 うごいた日々。地図上で高低を測るように、音楽から建築へはかろ うじてわたれそうだったが、数字譜をたどっていると蜘蛛に噛まれ た。