卵生メダカ科病棟まで

 



五月二日
 さつきばれ。無風。緑色の網戸のむこう、雲のない空と高架線の
コンクリートの塊を背景に、けさもカエルの卵らしきものが落下す
る。ざっと百粒。見た目はそうだが、正確に数えたら、その五倍は
あるだろう。それぞれ透明な球の中心に黒点がある。ぼくはなぜか、
意識的に何度でも卵を視界の上方に引き上げることができ、何度で
も落下を目撃できる。卵の配置は全く不変のまま、ゆるやかに落下
し、それにひきかえ、上昇は視線を移すのと同じ速度である。
 最近三人目の子を産んだ階下の女が庭から二階を見上げ、なにを
釣ってるのと尋ね、彼女の薄いやわらかそうな唇に鉤をひっかけて
やりたかったのを覚えている。ということは、きょう、何分間か、
何十分間か、窓から釣竿を差しのべていたのだろう。花壇にでも糸
を垂らしていたのだろう。釣り竿はきちんと棚にしまってある。
 心臓の痛みはひかない。

七月十五日
 雨空のなかの卵の上昇、落下はいつものように十五分間ほどだっ
た。数は二分の一ほどに減ったが、はっきり個別化し、白濁してき
た。黒点は表面へ移動してさらに鮮やかである。何かの眼のように
も見えるが、<視力>は感じられない。
 …死が発育する・・・・、なんて嫌な欺瞞に満ちた修辞学だ。盲目の歴史、
死後何か月の人間だ! あの眼はひらくのか? ごろごろと落下す
る。上昇は依然としてなめらかである。
 長い雨季だ。寝床はべとべとしている。ゴキブリが紙製の家から
飛び出してくる。捕虫用の糊の上はもう満タンなのだろう。形ある
ものの形がそろそろくずれだすのだろう。

八月九日
 真夏だというのに、ぼくの皮膚は真っ白だ。ヘスの女房にプレゼ
ントしたら、よそ行きの白手袋か。電灯の笠にはしてもらいたくな
い。汗を噴きだすこともなかろうが。


 


 たまにスーパーへ食べ物を買いに出るだけだが、外の明るさが
涙腺を刺激し、帰ってくると三十分は涙が止まらなくなる。
 卵はラムネ玉くらいに成長した。ちょうど三か月かかってこの
大きさだ。トカゲの卵かもしれない。しかも無機質の感じがする
のは、あの上下運動のせいだ。上昇して雲間に消えるでもなく、
落ちて砕けるでもない。
 電話局に頼んで、電話機のコードを六メートルの長いのに変え
てもらった。四畳半の一部屋で、かれらは不思議がらない。ひっ
かけないように注意してください。パンフレトのコピーのような
ことを言って、ぼくに印鑑を返した。
 ところで、電話をかけてくるやつも、かけたい相手もいない。

九月四日
 夜中に卵を見たのは昨夜が初めてだ。血の匂いを嗅ぎつけたの
だ。手首をシーツにくるんで吐気を堪えていると、卵が落下しだ
した。(なぜ上昇から始まらないのか解らない)全体が青みがか
った灰色だ。うすく影がさし、しっかり握りしめた指のようだっ
たのは、そのとき自分の手首にこだわっていたためか。大きさも
急に大人のこぶし大になった。三十も四十も、手首から先がぼろ
ぼろと落ちてくる。
 ぼくはあいている手でシーツをふりまわした。そのうちぼく自
 身の手がそれらに紛れ込んだようで気が遠くなった。あのまま
眠ってしまえば、目覚めずにすんだのだ。
 血に染まったシーツは紙袋に入れて、けさ、捨てた。
 虫が知らせたとでもいうのか、それともぼくの魂が報告に帰郷
したのか、用もないのにおふくろが電話をかけてよこした。甥っ
子のヒステリックな泣声が聞えていた。姉の薄っぺらい精神が甥
っ子の性格にどう影響するのか。長すぎる電話のコードは邪魔な
だけだった。

十月?日(十六日か十七日だろう)


 


 卵が見える、と耳もとで囁いたら、看護師がしたたかに殴りや
がった。口の中が切れた。よほど伯に血を吹っかけてやろうと思
ったのだが、やめた。
 さんざん捜しまわって屋上のT医師に看護師の暴力を訴えると、
よく言っとく、それよりランちゃんは(卵と呼べ)ここへ出ては
いけないという規則を忘れたのかね、ときやがった。すみのほう
で金網に向って胸のあたりをもぞもぞやっている看護師がいた。
ぼくにはそれがだれだかわかった。Tより年上だ。それでどうし
たね。Tはいつもの恐ろしく優しい声で訊いた。卵が見えるんだ、
電車が一両孵るくらいの。むこうの看護師にも聞えるように言っ
た。目玉焼きにしてくれ、ハムをのせて。よし、××さんに頼ん
であげよう。あのハゲ調理師に何ができるもんか。医師はわざと
らしく声高に笑い、同時に肩をつかむ手は爪を立てるといった離
れわざをやってのけた。ぼくを階段へ押しやり、鉄の扉をとじて、
やつらは屋上に残った。ぼくは病棟の全部に聞えるようにどなっ
た。TとSがやってるぞ。階段をおりながら、もう二度ばかり。
 むこうも困ったことになったのだろう。畳こそあるが、錠がお
ろされている。もう一週間ばかり卵はぜんぜん見えていない。き
ょうも見ていない。ただ一時的に、巨大な金環蝕に出喰わしたぐ
あいになるだけだ。<卵が見える>…これをどう表現したら、あ
の看護師を屈服させることができるのか。そのことで頭がいっぱ
いだ。



 星菫1号 1977.10 片桐怜編集発行