とんぼや楽器店

 



 とんぼやが雨戸をあける。雨戸はときに湿気をふくんで重く
きしむ。雨戸が湿気をふくんでいれば敷居だっておなじだ。雨
戸のあけたてで湿気の度合いがわかる。
 店は楽器を置いておくのにふさわしい環境ではない。土と、
木と、紙の、あたりまえの日本の家屋だ。楽器を守るべく特別
な配慮はない。配慮など口にしたら身内にころされるか、みず
から首をくくるほかない。先立つものがない。田舎町で楽器屋
が繁盛するなどありえない。道楽で、と身内はけなしているが、
それに対しては苦虫をつぶして見せるだけで十分。せわがない。
足りないところは愛嬌でおぎなう。内にも外にも仏頂面は禁物
だ。なりわいとはそういうことだ。まずは家内安全。奥の部屋
の鴨居の上に貼りつけてあるお札のとおり。神が守ってくれる
のではない。家族が一体となって守るべきものなのだ。神もそ
うして守られている。神は守られているだけでなにもしない。
ただただひたすらふるくなり、すすけ、黄ばんでくる。そして
毎年、正月には新しく貼りかえる。家内安全は、家族の心がけ。
神に守られているふりを十全に果たして暮らすのだ。

 雨戸をあけてしまえば夜明けの光はとんぼやのもの。そんな
ものを独占できるはずもないが、朝の明るさが店内に飛びこん
でくると店がじゃらんと銅鑼を鳴らすようでうれしい。バック
にGメジャーコードでギターがジャンとつけてくれたらなおよ
ろしい。不安定な和音と言われるがこの和音が好きだ。店の中
のレコードも楽器もじゃらんで目をさます。あらゆる音楽がじ
ゃらんで目をさます。

 わらぶき屋根もある、わずかに層をなした家々のむこう、水
田の地のはてから陽はのぼる。
 朝の光がガラス戸をつらぬいてガラスケースの中の数丁のハ
ーモニカにみがきをかける。ハーモニカが収められている厚紙


 


製の凾には、それぞれ内側にビロードが張ってあり、したたる光
をうけてけばだつ繊維がさざめく。細長く折りたたんだ説明書き
の紙片も四隅をひそかにつっぱっている。
 雨戸をあけて店主も手足をつっぱってかんがえる。とんぼやは
ロマンを商売にしているけれど商売はけっしてロマンチックでは
ない。ロマンチックであってはならぬものの上に君臨しているの
が店主のわたしだ。独裁者のように。同時にかれによってころさ
れる異教のひとのように。まことにとんぼや店主はおのずと混乱
した悲惨な状況にある。

 店主は天井から下がっているフォークギターの一台に手をかけ
る。ひとさし指ではじいた第一弦はCフラットをさらにあいまい
にフラットした音をもらす。そう、ひとが息をひきとるときの喉
の音をまじえて。

 店主にとって、とんぼやがときに重く感ぜられるのは、湿気の
せいばかりではない。商品のレコードや楽器の重量がそのままカ
ラダにのしかかってくる気がすることがある。
 そんなとき、とんぼやで軽いものは、とんぼやという屋号だけ
になる。そしてこの軽さが、店主に安らぎをもたらす。また、町
の人々がとんぼやを愛してくれる最大の理由もこれなのだ。とん
ぼやという屋号は九十九%の水と一%の銀。失望とよぶべきもの
はあっても、絶望はない。とんぼやはだれも絶望させない。店主
にはひそかな自負がある。

       ■

 ある朝、とんぼやが二枚目の雨戸を落とした。
 戸袋に入れた一枚目はあたりまえの雨戸だった。二枚目は手ご
たえがなかった。雨戸の裏の桟に指をかけてちょいともちあげる
ようにしたら、つぎの瞬間、ふっと世界が消えた。世界は雨戸一
枚でできあがっているわけではないが、いや、ひょっとすると自
分自身が消えたようにおもったのだ。それなら雨戸一枚と、まあ、
つりあいがとれる。
 日照りつづきで乾いた雨戸は、敷居をはずれてふわりと砂利道


 


へふせった。すなぼこりが舞い、店へはすかいにさしこむ朝の光
がけむった。店主の寝間着のゆかたもカラダから剥がれそうにな
る。よろけ縞がはだけ、とうに四十をすぎてたるみかけた胸をさ
らけだしている。なんと恥ずかしい一日の始まりだろう。はだけ
た胸はともかく、雨戸を落とすなんて。
 この時刻、通勤で駅に向かうひとがあるのだが、けさは、歩く
ひとも自転車のひとも見えない。道の向いは腰までの石垣の上に
板塀を巡らせた屋敷だ。勤めびとの住まいも多い。あたりの店舗
は雨戸が立ったままか、日よけのカーテンが引かれていて、ひと
の気配は遠い。
 下駄ばきの足を敷居から外へ一歩踏み出した。そのとき、道路
にふせった雨戸の上を通りすぎるなにかを見た。輪郭もさだまら
ぬものではあったが、人間がふたり抱きあったほどいの大きさの
かたまりが四つ足で通りすぎた。しかも戸板をひとなめしていっ
た。乾燥しきった木のツラをなめたってしかたなかろうに。だが
そこだけすなぼこりが掃けて、木目がくっきりている。そうだ、
雨戸にも木目があったのだ。店主はおぞけをふるった。
 おれが雨戸をなめたんだ。しかしともかく、けさは見知らぬケ
モノがいっぴき、駅の方角へと消えた。そう胸にきざみつけ、落
ちた雨戸に腰をかがめて手をかけた。おれがケモノの舌だなんて、
見破られてはならない。世界に向ってベロを出す――それはあり
えない。それなのに、しまりのないカラダにゆかたがいよいよず
り落ちそうだ。


2005.10 鰐組二一二号「べろのとんぼや」改題、改稿