飛翔欲と飛行の構造
目 次

次頁 前頁
 飛翔欲と飛行の構造



 水のまわり道をたどっていく、われらにいかなる泳法が身につい
たというのだろう、かすかに酢のにおいをたてながら、われらの歩
みは、いっぽんのテグスのように、まだ見ぬ水の底へと降り立って
いる気がするのだ。
 水のまわり道をたどるわれらは、たがいに他者の流域にひきこま
れ、馴れた手つきで波は、われらをまっ青な海に仕立てるのだ。
われらはひとつの海鳴りである、冷たさあたたかさ、ぬらすのであ
り、蒸発するのだ。
 かつてわれらは腐敗する物Jの腐敗の円環運動を脱落し、さらに
自虐的に蒸発へと歩いてきた。それはわれらの抑圧された飛翔欲の
燃焼行程である。
 われらの飛翔欲は、ほかならぬ水によって規制されてきた。
 かたちに従順な水は、それなりに多くのかたちを内包していたの
であり、かたちのひとつにすぎない《欲望》もまた水に内蔵されて
いた。水をみつめていて、ふいに襲ってくる、腋の下や膝の空疎感
は、ゆえなきことではなく、それは飛翔欲の肉体的な覚醒であり、
追体験である。われらはここで、ついに葬り去られることのなかっ
た飛翔欲の核としての自らを発見する。
 飛行は、腐敗あるいは蒸発を鳥瞰する構造である。
 酷寒の二月、北陸の海は浴槽のごとく朦朦と湯気をあげ、飛行す
る物Oは、腋の下のようにうすく汗ばんでいる。上昇気流の澄明さ、
痴呆じみた楽天性のただ中から、物O(オー)は、引揚げられこと
のない《死》を見ている。われらが水によって規制されたように、
物Oは飛行の構造の裡に探くとざされ、なおかつ、ある〈もの〉へ
の浸透を余義なくされている。
 しかし、飛行する物Oの水性は、われらの最後の自由のひとつで
あろう。われらは、苦痛や悲哀によって手をぬらすことができ、ぬ
れた手は、この大気の中で花のように咲き誇りさえするのだ。
 水のまわり道を、あくまでも遠まわりに氷河期へと遡行しつつ、
飛行の構造は無限にうずくまる。