だれが歌謡曲を殺したかと阿久悠は尋ねた 2/2
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したことか。
 創作とは小なりといえども革新的であるはずだから、あえて革新的な
どというまでもないのだが、歌謡作家たちは、新たな(革新的)創作力
を生む余地さえ失ってしまったというのか。
 新曲は生産され、供給され、消費されているにもかかわらず…。
 新しい楽曲が大衆にアピールするかどうかは、また大衆の選択によら
ざるを得ないけれど、すくなくとも革新の芽は絶えず萌え出ているはず
である。
 また、「いい歌だね」と評価される「聴き歌」というものがなくなっ
たというのはほんとうか。
 そもそも「聴き歌」から「歌い歌」、「踊り歌」へ進むという<本来
の>とされる図式にすべての聴き手をあてはめるのはいささか乱暴では
ないか。
 歌がそれぞれ<並列>して在ると考えてはなぜいけないのか。
 阿久悠の表現に倣えば、聴き歌が聴き歌としてあり、それが歌い歌に
なるかどうかは、個人的な趣味にゆだねられるもので、あるひとにとっ
ては、聴き歌が聴き歌にとどまって満足させるはずである。だれもが歌
ったり踊ったりへと歌をむずびつけるのではないし、個々の歌にとって
もそれは同じことがいえる。

 ひとつ作詞の世界を垣間見れば、単語に意味の違うルビを振るなど、
文言の読み替えでお茶を濁す、逃げ腰、手抜きの表現が氾濫している。
阿久悠がそうしていた、というのではなく、さいきんの詞を見渡せばそ
ういうふうにいえるということである。
 そしてこのことは、いわゆるカラオケで歌詞を見ながら唄う、という
環境の常態化とも結びついているはずである。詞を読ませ、言葉の意味
を膨らませる。つまり、歌を楽曲それじたいで完成させるのではなくて、
それ以上の付加価値を押しつけているようにもみえる。
 作詞家として潔しとしないところがある。
 いまや、十代の子供だってそうした状況を把握し、美しい日本語の歌
を聴きたいなどと新聞に投書しているのである。
 プロは、片鱗でプロであることを証明するという。しかしそのかけら
もなく、大衆に迎合するという姿勢、またはそのふりで、歌謡作家がわ
が身を守るというのでは仕方がない。 
 ほんとうにプロ意識というものがあったら、大衆に邪魔にされている、
などとくよくよしているひまなどないはずだ。
「だれが歌謡曲を殺したか」と問うまえ、これが殺されたとするなら、
どのように殺されたかを検証する必要があるだろう。
 <犯人>探しよりもこちらのほうが大事である。

【補記】
 音楽家のプロ意識、などと口走るのも、いまや時代錯誤かもしれない。
 プロでも食えなくなった原因を尋ねられた坂本龍一教授はつぶやく…
「コンピュータの能力アップによってミュージシャンが実際に弾く必要
が少なくなったことと、デジタル化+ネットによるコピーが原因です。」
2010.11.30/Twitterより

2010.11.30