カマキリは帆翔するか 自然観察園のネイチャーセンターの一室で昆虫図鑑のカマキリの項をみてい たら、帆翔ということばが出てきた。書棚に並べきらないで奥のほうにしまわ れていたものまでひっぱりだして、昆虫図鑑を五、六冊あたってみたが、帆翔 がつかわれているのは一冊のみだった。 帆翔といえば、けっこうな高みを浮遊する鳥の姿しか想いうかばない。それ をかまきりにおきかえるのはむずかしい。風でも上昇気流でも、カマキリがそ れに乗っかって宙に浮かんでいるなんてことがあるのだろうか。カマキリが帆 翔する、といわれると、語感がこちらに愛想よく寄り添ってきて、あたかも事 実がかたられているように理解してしまうが、にわかには信じがたい。昆虫学 者が詩人であってはならないいわれはない。しかし記述には詩人の粉飾のにお いもする。 じっさいにカマキリが飛ぶさまは、あまりに鈍重であり、羽根じたい、風に 乗るとか上昇気流に乗るとかに耐えられるつくりとはみえない。からだぜんた いからすれば羽根はさほど大きくなく、張りがない。たとえば紡錘形の腹部の 大きさにしたって、とうていこれを空高く運べるような羽根ではないのだ。 かれらの胸部は棒状であり、かれらの体型を単純に図式化すれば、スカート をさげる首ながのハンガーのようなものだ。そんなかれらの飛行は、目的をも っているというより、たいていのばあいやみくもな逃避行による決死の舞いの ようだ。美しくもなく、香気もなく、ひたすら鈍重でけだるい。うす茶とうす みどりのスカートの、数秒の飛行ののちの着地のようすときたらさらに目もあ てられないぶっかっこうさだ。折りたたみの鎌のかたちをした前脚からして、 着地にかなう脚ではない。飛んだら最後、着地のさまはほとんど地面にたたき つけられるのである。 だから、もしかすると、一冊の昆虫図鑑でカマキリの項を執筆した日本のそ の昆虫学者は、カマキリが飛ぶすがたをたんにヨットの帆に見立てただけでは ないのか。飛んでいるところをみればたしかに帆を張っているようにもみえる。 ……とは、しろうとの感想である。帆翔といえば鳥類のことと私などは考え、 カマキリを捕食する鳥がチャンスをうかがって帆翔する、ということと混同し てしまう。 長距離を飛ぶチョウの仲間ならありそうだが、カマキリが帆翔するのがほん とうなら、そのわけをひとこと付け加えておいてもらいたかった、とおもう。 カマキリを捕食する鳥がチャンスをうかがって帆翔する、ということと混同し てしまう。 ◆ 生まれて間もないカマキリの羽根は見てとれないほど小さい。かぼそい胸部 とふっくらした腹部のさかいめに天使の羽根みたいについている。 前脚は死神の鎌だが、それだって愛らしいことにかわりなく、かつ無力だ。 そうして尻をつんとそらへ突き出している。このお尻こそが世界の中心だと いうふうに。 つまり自分についてなにもわかっていない。気の強さだけがおもてに出て、 腕っぷしの強さに過剰な自信を持っている。 きゃしゃなからだで枯れた篠竹をするする這いのぼる。 ほどなく、ツルバラの枝に巨大な目玉のもちぬしがいるのを発見する。