食べるものではないから、味覚のイメージと結びつけてはいけないとい
うことはない。食べものでもないのに食べたらおいしいのではないかと思
わせるものなど、いくらでもある。いちいちここには列挙しないが、そん
なふうに見えれば比喩としての可能性を得る。絶対に食べてはならないも
のにだって食べもののたとえがつく。りんごのようなほっぺた。マシュマ
ロみたいな何々。
ものの見方に個人差があれば、比喩にも個性が生じる。それが受け入れ
られるか否かもまた個人差がある。いっぽうで受け入れられ、いっぽうで
は拒絶される、これはしかたのないことだ。
しかし、「絹ごし」を視覚としてとらえるとしたら、考えられるイメー
ジから豆腐をはずすと、ほかになにがのこるか。
しかも、絹ごしの雨という表現には、先行する「絹糸の雨」がまといつ
くだろう。「絹糸の雨」が確固たる表現であることにあらためて気づかさ
れる。「絹ごしの雨」は、いいかえ、舌足らずなものまねにみえる。
ある歌手のものまねをして、本人よりも上手に唄ってしまうものまね芸
人もいるが(星ナントカ嬢)、まじめに評価すれば、ものまねとしては似
ていない、という評価になる。似ているかどうかなど吹き飛ばして、歌は
だんぜん星嬢だ、ということにもなる。
文章の表現だって、基本はこれと変わりない。絹の糸の雨に似ないで、
しかも絹糸の雨よりも魅力的だ、というのが求められるべき創造的表現で
あり、書き手が求めるべき表現であるはずなのだ。
当人は、いいかえなんかではないと主張するかもしれないが、いいかえ、
ものまねと見えたってそれ自体はたいした問題ではない。
表現について視覚的イメージに固執するとしたら、それもまちがってい
る。
しかるに書き手は感覚的表現として雨を語る。
味覚はおくとしても、聴覚、触覚、あるいは嗅覚さえも動員させて雨を
語り始める。
書き手はこころみるべきであろう。絹ごしの雨、をべつの言いかたで表
現したらどうなるか。
そして自問してみるといい。絹ごしの雨が自分が思っているとおりの雨
であり、思っているとおりに読み手にも伝わる、といいきれるか。
冗談としてなら使えるかもしれないとおもう。文学、文章についてうん
ぬんする場所ではなく、お笑い演芸のネタ話としてである。そのさいは、
見た目ばかりではなく、味覚の要素もとりいれる。豆腐そのままの雨でよ
ろしい。笑いがとれるかどうかは芸人の腕次第ということになる。
ついでにいうと、交通事故かなにかで人の頭がつぶれたのを目撃したと
しよう。脳が頭蓋骨の外へ出ている。いわゆる脳みそだ。これをつぶれた
豆腐にたとえた作家がいる。ここでは冗談が通じない。
2008.7.11