壁。
人影はおろか、生きものの姿はない。
家には一枚の木のドアがついている。閉ざされているが、しかし中か
ら話し声が聴こえてくるような気にさせるのはなぜだろう。
膝の上の分厚い法令集を腰の横におくと、長椅子に沈めたからだがそ
の重みでいっそう沈む。
そのときまるで険悪な人物に剥ぎ取られでもしたかのようにドアがひ
らく。
炎のいろが部屋いっぱいに揺らぐのがみえる。
しかし恐怖心をかきたてる炎ではない。
それどころか、部屋になじんだ生命力だの幸福だのが、外からやって
きてそれらを台無しにしようとする悪鬼を一気に呑み込んでしまう強さや
さしさがある。
暖炉の奥にもう一つのドアがあって、そこをあけると上階への階段が
ある。
法令集をロビーの長椅子におきっばなしにしたまま、さっきよりは狭
い木の階段を上がっていく。いくつもの踊り場をすぎ、さらに階段を上
がっていく。絵の中のあれは平屋だったが、なにか建物を見落としてい
たのだろうか。塔のようなものがどこに隠れていたのだろう、厚い雲に
まぎれていたとか。
ふいに、子どもたちの勝ちどきらしい声があがる。階下からのように
も、外からのようにも聴こえる。小学校は低い丘をひとつ隔てているから、
風の加勢があってもそこから聴こえてくるとはおもえない。ついでかすか
に歌声がはじまる。裁判所にやってきた人間がどんなに能天気だからとい
って、建物のなかで放歌高吟するということもあるまい。それにあれはや
はり子どもの歌声だ。
額縁の絵のなかのだれかが唄っているのかもしれない。人影こそ見えな
かったが、歌声はあのあたりからあふれてくる。はじめは二人か三人それ
ぞれ勝手にメロディを口ずさんでいたのが、やがて唄う声が増え、ひとつ
のメロディへと掬われていく。あいまに勝ちどきの声がとどろく。
にせの唄が流れてくる」
とつぶやいてみる。
歌声に押し上げられているのだと悟るのが遅かったかどうか。最上階に
は小窓だけがあって、いきどまりである。けっして開いていたことがない
(となぜか断言できる)窓が、きょうにかぎって外側へ押し開かれている。
ハーモニーに加わる快感に、からだがふわりと浮く。
トマトの夏ははるかに遠い。
2010.11.25