偽詩的ウタ論の試み


 1
 <詩>は漢字の読みかたとしてウタでもあるが、私は一時期、詩におけるウタではなくて、唄うウタそのものを詩にして書けないかと模索したことがある。
 発声練習や歌のレッスンのさいちゅうに考えることなどを、少しばかり文学をきどって表現した、いわば、歌についての試論である。
 学問ではなくて、遊び、余興の部に属する。
 しかし、それを文章、詩として書きつける以上、読むひとにはなるべく心にひびくものでありたい。そして歌唱にとりくんでいるひとが読んだときにはいっそう理解を得られるものでありたい。
 そんなつもりで書いてきた。
 できあがってみれば相も変わらず自己満足的な詩篇である。
 私はけっして、歌い手がじぶんの唄に酔って目をとじるようなナルシストではないつもりだ。なるべく目はみひらいたままでいたい。それは書いたものがどんなふうに読まれるのかを知る用意でもあるし、相手が腹を立てたときには敢然として立ち向かう……と見せかけていち早く逃げる準備だ。
 そんなわけだからたいして多くもない詩篇を、じゃまにならないようにこの場所を借りてつらねたい。
 ここの屋号は『やんま堂・M』。MはMusicのM。
 以降、不評を買っての開店休業もいとわず詩をならべる。すぐ挫折して店をたたむ可能性もある。
 なにかを感じていただければそれで私としては十分なのだが、なお、理解できないところがあったら(いくらでもあるだろうが)、わかりやすく書く力がないからだ、とあきらめてください。(それでもつきあえといっているのだから、あつかましい。)

注:●印の詩篇は『文学ごっこのやんま堂』に収録のものであり、ここに書き出すにあたって手を入れてある。

●羽ばたく日があれば

そのひとふしは
這うがいい
腹にこめた力を
そのまま
大地にさらすがいい
やぶがらしみたいに
地を這い
やぶをからめ
森をからめ
晴れわたる潮来街道の
首なし地蔵尊を波打たせ
さびれるばかりの
商店街のシャッターを波打たせ
草刈り鎌に燃えのこる夕焼けを
波打たせるがいい
夜はフクロウだって
だまって打たれているだろう

うたはおごそかに
翌朝へ持ち越して
たんぼばかりの地の果てから
這うがいい
あかるい悲鳴の畝を
ひとつあがって
さてつぎのひとふしは
腹這うそいつの背中を踏台に
さらにのびやかに
きょう一日をはばたくがいい

 2

 高い声で唄う方法、高い声を出す方法などの指導書はあるが、低音部の出し方の指南書などはどうなのだろう。
 しかし、ネットで検索すると、いろいろと指南するサイトが出てくるのである。
 <楽器と同じで、その人が出せる低音には限界があって…>と身もふたもない意見も出てくるが、高音域は訓練で広げられるけれども、低音域はそうはいかない、というのが通説かもしれない。
 ほんらい自分が持っているのに、出し方がわからないで、出ない、と思い込んでいる人もいるだろうとおもう。それなりの方法がわかれば、人によっては大きな開拓になるはずなのに。

 高音といえば、かつて三橋美智也がいた。
 けれども、彼が歌謡曲で出している高音は上のラぐらいまでである。(例「白菊の歌」「潮路」) いまどき、それくらいの高さではだれも驚かない。
 そして、三橋といえば高音の魅力と相場がきまっているけれど、じつは低音にも力がある。この低音部があればこその、艶ある高音部だ。私はそのむかし三橋美智也が原語で「キサス・キサス・キサス」を唄うのを聴き、その低音に魅了されたものだった。
 そしてかれには前段に民謡があって、歌謡曲の発声とはいっしょにならないけれど、高い声を出す方法としてのヒントがこちらにもあるといえるだろう。
 で、民謡の教本などをひもとくと、そこにももちろん発声練習はあって、民謡の大家が声の出し方を指導している。
 ここにこんな教えがある。
 〈低いところが出ない人は、イメージだけでいいですから。低い音をイメージして…>
 イメージだけなら、楽だ。声にならなくでもいいのである。
 楽である―。
 このことが最重要なきっかけだった。
 楽な気持になったとたん、声が出た。
 まさか、民謡の指導書で、低音域が広がるとは想像もしなかった。
 …と、そんなことも起こるのである。

 さて、拙作であるが、高音賛歌。あのかた…と宗教的な存在までに高めることになったのは、ゴスペルを唄うポール・ビーズリーを念頭においてであり、彼への敬意である。

●ハイ・ハイAに在り

唄が、あのかたを求める手つきになれば
かの詩人がよりたかく風船を打ちあげたように
もっとたかく声を放つ
上のA(アー)の、さらにもうひとつ上のAへと。
唄はもはや
声ではなく、そらに浮かぶ船のようなものとして
光さえ発して、大気をゆらす。

ゆれる大気におされ
地にはじかれ
身をおどらせた水銀の蜻蛉よ
そらの青の微熱よ
さて休止符の闇をただようとき
鳥たちも暗黒にのまれ
いずれおとずれる音の転落に
身をまかすことになるだろう。

ものみな音とともに地に帰す、けれども
なんどでもよみがえる狂乱があり
陽に灼けたちいさな
八分音符みたいにやせたからだと
はずむ息だけの唄は
あまたの耳をあたためようとして。

耳よ、耳よ、あのかたの耳よ。

 3

 「-2-」に引き続いて発声に関することがらを詩にしている。
 ひねりはきっちりきいている、なんていっているが、詩の中身のひねりは、ぜんぜんきっちりしていない。
 読むひとに理解できるひねりでなければ、きっちりなんていえないし、ひねりはそれなりに詩的(ウタ論的)に効果をもたらすものでなければならない。
 ここではそんなことを無視して、ただ言葉だけでそういっている。
 そんなことを詩として書く意味があるのか、という疑問をもたれるかもしれない。
 意味なんかないかもしれない。
 だが、意味がなくてはならないのか、意味がそんなに大事なのか、という反論もここには含まれているかもしれない。
 とにもかくにもここは、カラダのどこにも力を込めないことが重要である。
 声を出すのに、声を出すという意識さえ頭からぬいてしまう。
 そうしてカラダをリラックスさせ、ため息をつくように息をして、その息にそっと声を乗せてみよう。
 のどなんかないんだ、とおもいなさい。
 ボイストレーニングの基礎がはじまる。ウタ論以前である。  詩では、トレーニングが中間の音から高音部へ入ってきている。

●首から上はプチトマト

ともれよ ともれ
見よう見まねの
プチトマト

ともれよ ともれ
プチトマト
ひねりはきっちりきいている

声は足うらから
みぞおちへ さらに
つるをすべってプチトマト

のどは ないものと
おもいなさい
絵の具の赤をしぼるように
声を熱くして
五線譜のくらがりを照らすんだ

ともれよ ともれ
ひねりはきっちりきいている
くびからうえは
プチトマト

(小窓のミシン目は
 どこかしら)

ほらまた そんなところで
うらがえる
声はしょうめんきっての
プチトマト

 4

「そこに<雨>という言葉があれば、どんな雨なのか、小雨なのかどしゃ降りなのか、わたしはそれを声で表現したい」  たとえば<雨がそぼ降る>と歌詞にあるとしよう。<そぼ降る>で雨のようすはわかるのだが、そうした形容に寄りかかるのではなく、<雨>の一語に歌い手として想い(表現)を託したい。
 かれが声で表現しようとする以前に、すでに作曲者がメロディを言葉にあてがっている。にもかかわらずかれは当然のように声にこだわる。
 演歌、歌謡曲ならではの言葉への執着と慈しみを北島三郎が吐露する…。
 だから「川」と歌詞にあれば、おのずとかれは川の風景を聴き手に伝えたいと願うのだろう。声で風景を描こうとするのだろう。平野をながれる大河か、それとも渓流かを声で。

 つぎに登場するのは素人で、歌謡教室の発表会のようなものか。
 ステージのかれはひょっとすると人一倍のアガリ症かもしれない。

●唄う鉄分

もとより声は大地のものであり
足うらでひろいあつめるのである
体重をつまさきにかけて
声をひろい、かつ
鉄分をとる
大地からと、あのひとたちの期待からと

つちふまずがさいしょの共鳴をはらむ
つぎにふくらはぎがはりつめ
ひざの皿もひびきはじめる
声がきみをとらえ
きみの声となり
声としての肉体をあらわにする

さて、そのくちびるでおもむろに語りはじめるがいい
うたうのはひとこと、ふたことでよろしい
それでも聴衆の耳はうたであふれかえる
すべての耳が溶鉱炉になる
喝采がきみのステージを
さらに頭上たかく築く

大地に返すべき熱いものによろめきながら
きみはさいしょの足うらいちまいになりきるために
だれにもさとられぬよう つかのま
ひとり深い呼吸に埋没する

 5

 ツイッターを見ていると、日常のひとコマをとらえて、そのまま歌詞になりそうなツイートをする人がいて感じ入ってしまうことがある。

<さっき、上半身裸のあんちゃんが、すんごいボロいプジョーのオープンカーにのって、タオルで汗拭きながら、走ってた。公然猥褻罪で捕まれ、気持ち悪い。つか、あんなプジョーでいきがってるのが、ね。。せめて、ポルシェとかランボルギーニとかなら、まだ許せたのに。。。不快だわ。。>

 <タオルで汗拭きながら>が、いかにもリアルで、男の容姿などの説明もないのに、イメージはがんがん伝わってくる。
 このツイッターは音大でバイオリンを弾いている。言葉のセンスに光るものがあり、たぶん本人はそのことを意識している。だが、ツイッターという場での肩の力の抜け方が、彼女にさまざまな「名言」「迷言」をもたらすのだ。
 <不快だ>といっているが、彼女の不快感には同情すべき点があるような気にさせられてしまう。

 歌詞では必ずしもディテールをしっかり書き込む必要はないのだけれど、作り手が前提としてそれを持っているのといないのとでは、たとえば詩情というようなところで差が出てくるのではないかとおもう。なによりディテールが確かであれば言葉の吟味、選択もおのずと厳しくなるはずだからだ。似たような表現の繰り返しにも用心ぶかくなる。

 で、私は言葉を文字でなく、音声に頼って、この場をやり過ごし、ここでの<試論>を終わる。
 以下の朗読は、このブログの別のページで『ブラッドベリのように』と改題して出しているものの、もとの詩。自分では気に入らない表現があったり、書き足したい部分があったのだが、原稿を朗読者に渡した時点で私と手が切れた作品とおもうことにした。(ボイスポエム「手品師のように」=略)

2010.8.18