偽詩的ウタ論の試み 3/6
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ないけれど、高い声を出す方法としてのヒントがこちらにもあるといえる
だろう。
 で、民謡の教本などをひもとくと、そこにももちろん発声練習はあって、
民謡の大家が声の出し方を指導している。
 ここにこんな教えがある。
 〈低いところが出ない人は、イメージだけでいいですから。低い音をイ
メージして…>
 イメージだけなら、楽だ。声にならなくでもいいのである。
 楽である―。
 このことが最重要なきっかけだった。
 楽な気持になったとたん、声が出た。
 まさか、民謡の指導書で、低音域が広がるとは想像もしなかった。
 …と、そんなことも起こるのである。

 さて、拙作であるが、高音賛歌。あのかた…と宗教的な存在までに高め
ることになったのは、ゴスペルを唄うポール・ビーズリーを念頭において
であり、彼への敬意である。

●ハイ・ハイAに在り

唄が、あのかたを求める手つきになれば
かの詩人がよりたかく風船を打ちあげたように
もっとたかく声を放つ
上のA(アー)の、さらにもうひとつ上のAへと。
唄はもはや
声ではなく、そらに浮かぶ船のようなものとして
光さえ発して、大気をゆらす。

ゆれる大気におされ
地にはじかれ
身をおどらせた水銀の蜻蛉よ
そらの青の微熱よ
さて休止符の闇をただようとき
鳥たちも暗黒にのまれ
いずれおとずれる音の転落に
身をまかすことになるだろう。

ものみな音とともに地に帰す、けれども
なんどでもよみがえる狂乱があり
陽に灼けたちいさな
八分音符みたいにやせたからだと
はずむ息だけの唄は
あまたの耳をあたためようとして。