偽詩的ウタ論の試み 5/6
 次頁


ともれよ ともれ
ひねりはきっちりきいている
くびからうえは
プチトマト

(小窓のミシン目は
 どこかしら)

ほらまた そんなところで
うらがえる
声はしょうめんきっての
プチトマト

 4

「そこに<雨>という言葉があれば、どんな雨なのか、小雨なのかどしゃ
降りなのか、わたしはそれを声で表現したい」
 たとえば<雨がそぼ降る>と歌詞にあるとしよう。<そぼ降る>で雨の
ようすはわかるのだが、そうした形容に寄りかかるのではなく、<雨>の
一語に歌い手として想い(表現)を託したい。
 かれが声で表現しようとする以前に、すでに作曲者がメロディを言葉に
あてがっている。にもかかわらずかれは当然のように声にこだわる。
 演歌、歌謡曲ならではの言葉への執着と慈しみを北島三郎が吐露する…。
 だから「川」と歌詞にあれば、おのずとかれは川の風景を聴き手に伝え
たいと願うのだろう。声で風景を描こうとするのだろう。平野をながれる
大河か、それとも渓流かを声で。

 つぎに登場するのは素人で、歌謡教室の発表会のようなものか。
 ステージのかれはひょっとすると人一倍のアガリ症かもしれない。

●唄う鉄分

もとより声は大地のものであり
足うらでひろいあつめるのである
体重をつまさきにかけて
声をひろい、かつ
鉄分をとる
大地からと、あのひとたちの期待からと

つちふまずがさいしょの共鳴をはらむ
つぎにふくらはぎがはりつめ
ひざの皿もひびきはじめる
声がきみをとらえ