ってある岸辺は、さいきんの雨つづきで水かさが増し、泥を岸に残しても
との水位に下がったところらしい。ドロは、乾いたところもあれば、まだ
水気を含んでいる部分もある。蝶がむらがっていたのは水気を含んだ場所
だ。十数匹のアゲハが羽をふるわせて、なにかをむさぼっているようにみ
える。アオスジアゲハ二匹、キアゲハ二匹、アゲハが十匹あまり。しばら
くみていたのだが、少し近づくと警戒して、地上を離れる。いったんその
場を離れるとふたたびそこへ帰ってくることはなく、あたりを飛びまわる
だけとなった。蝶は、橋をくぐったむこうの草むらにもむれをつくってい
た。
かつて住んでいた川崎でも、生田いくた緑地へでかけていって、こうい
うふうに蝶がむらがっているのにでくわしている。何の木だったか、高木
の根方に二、三十も集っていた。それだけの集団になると、一匹いっぴき
のはなやかさは、おドロおドロしいものに成り代わる。あれはたしか水分
をとっているのだが、生きものの執拗な欲求が伝わってくるようで、むし
ろ、重くるしい気分になる。
昆虫館などで、蝶の群れにたかられてきゃあきゃあ騒いでいるひとの姿
をテレビで何度かみたが、いっぴきでも体にたかられたら、ぞっとする。
わが家の庭でそうした経験がある。羽はともかく、からだをつぶさにみれ
ば決してあいらしいものではない。群れると、そうした気色のわるさが増
幅するようにおもわれる。
川の岸辺で、腰に手をやり、仁王立ちになって蝶の群れ飛ぶのをながめ
ていた。
五十がらみの、ステテコに肌着の太めのひとが、なにやら棒をふりなが
らやってきて、
「パトロールのひとですか」
ときく。
こちらの姿勢がもしかするとそんな誤解を招いたかもしれない。せいぜ
い暑さに耐えていただけのことだ。ちがいますと答えると、ああそうです
かと、それきり、ぶらぶら川原を歩いていく。
ひきあげることにして、そちらをみると、そのひとは橋の影のなかにい
て、ごろごろした割り石を金網で覆って敷き詰めているところで尻もちを
つき、川をながめるふうであった。すわり心地がいい場所とはおもえない。
それにしても、木の枝のような棒は、なんなのだろう。杖代わりにして
いるのでもなく、さっき、こちらをひるませるようななりでふりまわして
いたのも、どういうことなのかわからない。たんなる手慰みなら、あぶな
い動きはひかえてもらいたい。あちらもおなじようなことをかんがえたか
もしれない。紛らわしいなりで突っ立っていたもんだ、と。
パトロールだったら、なにをいうつもりだったのだろう。
なるほど、あたりをパトロールするひとが実際にいるのかもしれない。
みまわしたところ、草刈りのチームが土手で器械としっしょに斜めになっ
て芝刈り機を運転していたり、橋のたもとで休憩していたりするのがいる
ばかりだが。
土手を登りながら、橋にある歩道を歩きたいとまたかんがえている。橋
が開通する直前にいちど歩道をむこう岸まで歩いている。橋はこれまでの