どうせ飛べないカモメだね 覚書 1/2
  

 次頁  前頁

                どうせ飛べないカモメだね 覚書


「どうせ飛べないカモメだね」の初稿およそ七十枚は一九八七年の
『鰐組』四十四号の掲載である。何十年かぶりで鰐組を書棚からひ
っぱりだしてみると、赤ペンでの校正がめちゃくちゃに入っている。
 この年にこれをタウン月刊誌『神戸っ子』主催の神戸文学賞に応
募している。
 神戸文学賞は、前年一九八六年の第十一回から、それまでの神戸
文学賞、神戸女流文学賞を一本化し、関西地区のみの公募範囲を全
国に拡大したもの。「カモメだね」は第十二回に応募で、候補(五
人)どまりである。
 一九九二年になって『早稲田文学』三月号に掲載されている。鰐
組の初稿から九十八枚にふえ、書き出しの場面も、文体も、主人公
の名前もちがう。同誌へは八〇年から掲載され始め、十年以上を経
て、これが十一作目である。十一作というと多そうだけれど、一篇
一篇が短い。
 プロの作家ではない。プロではないから、早稲田文学への原稿は
もちろん依頼ではない。最初のころの一、二度は、著者校正に編集
室へ出向いた折に別の原稿を持ち込んだりしたかもしれない。その
後はすべて投稿である。商品を創出しているのではない。売りもの
ではない。売れるものかどうかを訊ねるというものでもない。編集
室へ郵送するのは、掲載に値するものかどうか審査していただくた
めである。掲載されればわずかだけれど枚数に応じて稿料が出る。
 早稲田へは一、〇〇〇枚くらい書きたいものだ、とおもってやっ
てきた。一九九六年、十八作目「安兵衛のやつら」一七五枚をもの
した。これが早稲田文学への最後である。小さな一歩一歩を一六年
積み重ね、やっと一、二〇〇枚程度だ。
 早稲田への初めの一歩は、立原正秋氏に小説を読んでもらうこと
であった。そのころ編集室は立原さんのほか三浦哲郎氏など錚々た
るメンバーだった。三浦哲郎作品を片っ端から読んでいた。立原さ
んの作品は雑誌で「白い罌粟」を読み、これがこんどの直木賞だな
どと友人に言ったりしていた。そのとおりになった(一九六七年)。
 それでかどうか、原稿を読んでもらうのは立原さんだ、と決めて
一作を書いた。当時、早稲田文学では投稿の際、原稿を読んでいた
だく作家を投稿者が指定できたのである。原稿は原則返却されない。
立原さんは一九三枚の原稿の表紙に「要返却」と赤字で記し、短い