モデルN嬢 モデルN嬢は実在したのか。 疑惑がひとたびかれの脳裡に枝をひろげると、たちまちおびただ しい葉むらが、視界を曇らせてしまうのだ。 あるいは飛来する葉むらのはたてに、疑惑が見えかくれするとい ってもよい。そのときかれが掌中におさめたいのは、N嬢ではなく、 まさに疑惑そのものだ。ところが疑惑は疑惑で、N嬢をモデルに、 かれの夢とうつつのあわいを跳びはねている。 疑惑とN嬢とのあいだに、せめて一条のぬくもりでもあればと、 かれは思うのだ、ぬくもりでもあれば、あらゆる仮定は、かかとを しっかり地につけて歩いてくるだろう、それはおれを踏みにじって いく輝かしい定理だろう。 しかし、モデルのその不定形さが、N嬢であり疑惑なのだ。実在 が、非在が、なんだろう。モデルからN嬢へ、また、おれを通りす ぎていく後ろ姿が、なんだというのだ。 N嬢は、風のそよぎかたをそよぎ、草ぐさの渚を波うつ。 横たわると、N嬢は、しきつめた若草そのものだし、カメラマン の気まぐれにそそくさとしたがって樹の幹にすがると、N嬢はその ままやさしく樹である。 肌は日本人らしい白さで白く、それは透明なうすく湿った黄いろ い皮膜につつまれている。指は充分な機敏性をそなえて、しずかな しわをうつしだしている。だが、その肉体的な属性から、1メート ル程度ひきはなされると、もう汗ばみ、五月の風に同化してしまう。 だから男たちは、突飛な行動にわれを忘れることも可能だった。 いやすでに行動は起されていた。N嬢の姿態のひとコマひとコマに、 男たちの慾望が介入していた。 何事があったのか、なぜひとつの事件が空白でありうるのか、解 明されぬまま、N嬢に関する諸々の事象は、かれに痣となってのこ る。