レモンの狂気 けっきょく、ぼくは、レモンがかつて狂気のままに蒐集したおび ただしい曲線の、ただの一本も盗み出せなかった。 あの酸味と色彩、そしてぼくを酔わせた透明度は、あいかわらず 隆起と陥没をくりかえしていたが、レモンの自閉症は、ますます完 璧だった。その表面のなめらかさは、いかなる破壊欲をも芽生えさ せなかった。いまや動かしがたく、狂気のままのレモンだった。 ひとすじの曲線を搾取されて、この春の初めから、いま冬にさし かかるまで、いったいなにをぼんやり生きてきたのだろう。桜が蕾 をつけはじめると、もう、満開の花の下で曲線が曲線を生むぼく自 身の繁殖を夢想したのだった。 世界は気泡のように昇天を静かに堪えている。ほくが前進するとこ ろに〈もの〉はない、前進するぼくが唯一の〈もの〉である…… ところがじっさいは、ぼくのかたわらを陥穿がはしりつづけ、レ モンの自閉症よりも、ぼくは、この少女めいた滑走が不安でならな かった。 春から夏、そして冬へ、弓なりの嗤い。