《もの》はしばしば威嚇的にしか存在しない 2/2
目 次

次頁 前頁

自らを収斂すべく物質的な窖(あなぐら)について、納屋はな
んら規律や計算式をもちあわせてはいないのである。そこに持
ち込まれる〈もの〉の配置の不文律が、納屋ぜんたいに浸透し
ているのかもしれない。その内部の動向を慮ることなく、仮に、
《.》が納屋を抽象しているとして、はたして、《.》と納屋
の距離は、《.》とも納屋とも見えるとき、そうとは見えない
ものの側からすれば、それこそ永遠ともいえる距離であるだろ
う。その距離にあって、血迷わない《.》や納屋はない。
 そんな納屋から、あるいはピリオドから、兇器となりえぬ
〈もの〉を引き出すのは、かえって困難である。〈もの〉は、
それぞれの延長線が交わる地点では、それぞれ威嚇的にしか現
前しえない。兇器は、不安の解体によって生じる副次的な〈も
の〉の、瞬間への野生的倫理的な君臨である。兇器による生命
への大いなる譲歩が、そこに苦悩のない安らかな肉性をもたら
すのである。
 その濃縮された大気の影に、いまこそNaya−と呼びかけるだ
ろう。すると納屋は熱を帯び、節ぶとの未発達な手をびくりと
させる。だからふたたびはNaya−と呼びかけてはなるまい。納
屋は、あたりを見まわして、それから慄然として Naya になり
すますからだ。呼びかけた者への殺意が、納屋の中で、そのと
きこそ確かな〈もの〉となるからである。