《もの》はしばしば威嚇的にしか存在しない 1/2
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 《もの》はしばしば威嚇的にしか存在しない


 これまで一度たりとも Naya と称ばれたためしがない。とり
たてて納屋らしくないというのではない。よほど天候がわるく
ないかぎり、あたりには白色レグホンやチャボがうろつき、と
きにはザーネンが教頭つながれていたり、鼬や野鼠がかけぬけ
たり、近所のこどもがはいりこんで、仲間に外から鍵をかけら
れ泣きさけぶこともある。ごくあたりまえの納屋である。いや、
あたりまえすぎて、もっと気体にちかい、濃縮された大気がそ
こに影となって泛かびあがった、といってもいい。
 引戸の扉は、人を寄せつけぬ醜悪な木目を、露骨に、しわが
れたようすで浮き出させている。漆喰には無数のまなさしが塗
り込まれ、落着きなく脈打っている。それらがたがいに好戦的
に反目しあっているのだ。
 納屋ぜんたいの暗澹たる様相、冷酷無慚な仕組の数かずが表
面化したような肌ざわりは、そこへ片付けられる〈もの〉の宿
命をそのまま物語っている。〈もの〉たちはふたたび陽の目を
見ることなく忘れ去られる事態に甘んじなければならない。な
ぜなら、納屋そのものの存在が、多々、忘却される性質のもの
だからである。 Naya でも納屋でもない、まさに空無のままに
放置されるのである。火災や洪水によって、ある日、意識は明
確に納屋をとりもどすだろう。
 それにしても、納屋がにしか見えない位置からでも、納屋と
見てとれるという、ある種の自大な確信についても、いたずら
に否定はできない。ただし、より正確には、《.》(ピリオド)
としか見ようとしないし、見たくないのだろう。それは、再三
にわたって確認されなければならないような、熱意や、熱意に
内蔵されるすべての偶像を、納屋は破壊し排斥してきているか
らである。しかし、《.》としてそれが見えるとき、見る者は
その肉眼についての過信からして見誤ることば断じてあるまい
が、納屋は、《.》としての納屋は、見る者に対してその位置
が正当かどうか、見られている位置を全うしているかどうか、
不安なのにちがいない。その核ともなるべきひとつの《.》、