「来てなんかほしくないわ、あんなやつ」
「まあ、まあ、はやいとこ機嫌をなおさないと、客が来てへんにお
もうよ。いい女がだいなしだ」
美弥のとがった口がひっこんだ。にこっと笑って、
「ほんとね」
変わり身のはやさも、「ほんとね」の相槌にもついていけないが、
怒った顔よりは、うわぺだけでも笑っていたほうがいい。
美弥はボックス席の壁に目をやり、これでよし、という表情をこ
しらえる。目のあたりにかすかにそばかすが見える。
カウンターと向かい合ったその壁にはアラベスク模様の金属にふ
ちどられた楕円形の鏡がある。細身で長身の彼女がカウンターの中
央で自然に立ったまま、じぷんの顔をのぞける高さにとめられてい
る。客と話をしながらでもしょっちゅう目がそこへいく。とりすま
したり、わらったり、会話の内容とは関係なく美弥の表情が変化す
るのはそのためだ。常連でそれに気づいていない者はない。そのこ
とをあげつらい、ひやかしたりからかったりする者もいない。話を
うわの空で聞いているのが客にばれても、彼女はその美貌とプラス
・アルファで許されてしまう。プラス・アルファとは客一人ひとり
がそれぞれにもっている思惑だ。おおかたは美貌の彼女にひかれて
通いつめているのだし、彼女に嫌われては元も子もない。
「でも、あれほどご亭主に思われて、しあわせね。ひょいと海外旅
行にも行かせてもらえるし」
「ママだってしあわせだろう。こうしてお店もたせてもらえて」
「あら、おことばを返すようですけどね、亭主の甲斐性というわけ
でもありませんのよ、このお店は」
「ああ、それは、どうも失礼」
彼女は煮物に菜箸を立てたまま流し目をくれた。目尻がさがって
色っぽい。
彼女は汀子と同い年の三十だ。デパートに勤めている亭主は二歳
年下で、三歳になる娘がいる。彼女自身デパートに勤めていた時期
があって、職場結婚である。亭主はデパートでどんな仕事をしてい
るのか佐々木は知らないが、たまに店へきて手伝ったりする。この
男がね、と亭主を見るたびに佐々木は腑に落ちぬ患いがする。美弥
ほどの美形を妻にする魅力がこの男のどこにあるのか。無口で陰気
だ。