「ま、そういうことだろうな」
「あら。そうかんたんに……あきらめ、ないでえ」歌謡曲の歌詞を
そのまま節をつけていう。
「そうお」
調子にのってカウンターから身を乗りだしかけた佐々木の鼻づら
をぴしゃりとはたく真顔になって、
「でも、そうねえ、わたしは旦那しか知らないで終るのかしらねえ」
ひとりごちる口調が、本気とも冗談ともつかない。
「信じられない……」とかれがいいかけたとき、美弥のエプロンの
ケイタイがうなりだす。美弥はガスコンロの火をとめてケイタイを
ひらく。口あけの佐々木より前に、まだ店があいていない時分にき
た客からだ。
「すみませんねえ。わたし遅刻しちゃって……いま、佐々ちゃんひ
とり。どうぞいらしてくださいな」
電告が終った美弥に佐々木がいう。
「それじゃあ、汀子さん、もうあまり来られないかな」
「さみしい?」
「べつに」
「そのうちまたくるわよ。……信じられないって、なにが」
「え」
「さっき、なにかいいかけたじゃない。ケイタイ鳴ったとき」
「なにか、いった? なんだろう」
「わたしが、旦那しか知らないでっていったときよ。信じられない
とかなんとか」
「あ、ああ」
「なによ」
「だからさ……ま、まあ、いいじゃないか」
「へんなの」目が鏡へいく。口が、破れたみたいにまがる。「い
いたいことは、わかっていますけどさ、どうせ」
「だいじょうぶ、佐々ちゃん」
声をかけられて気がつくと、ボックス席に寝ている。汀子が立っ
ていて、こちらを見おろしている。彼女はカウンター越しに美弥か
ら釣銭らしい金をうけとる。