おとといの晩、夫に店からひきずりだされたばかりだというのに、
もう夢轟へ来ている。
彼女がそんなふうに呑みあるかなければならない理由は何なのか。
そんな疑問が頭をかすめる。
「それじゃあね」そっけなくいって出ていこうとする。
「送っていきます」佐々木は起きあがる。
「いい、いい、近いんだから」
「送り狼になるなよ」だれかがいう。
十時半をまわっていたが、もともと人通りの少ない道である。
店の前の大通りを横断してすぐの路地へ入って、佐々木は訊いた。
「おととい、大変らしかったけど」
「うん?」
「旦那さんと」
「…………」
「殴られたりしたんですか」
「わたしに手をあげたことはないわ、主人」
「そう」
「けろっとしてるの、次の朝は」
夜闇のむこう、けむるように桜の花の白い影がひろがっている。
灯のはいっていないぼんぼりがどぶ川沿いの道につらなっている。
商店街主催の桜まつりが数日まえにあったのだ。どぶ川をわたる鉄
の橋の手前まできて佐々木は汀子のうなじにそっと手をやる。
「ひゃっ」と彼女はおそろしげな声をたてる。
あたりの家のだれかが聞きとめたかもしれない。かれは一気に酔
いが醒めるおもいだ。汀子はひくく唸って立ちどまり、それから橋
を甲高くがんがんと踏み鳴らしていく。走りだしそうな急ぎ足だ。
肩がぎゅっととがり、なにか爬虫類のような影となって闇の裡へま
ぎれこんでいく。
佐々木の耳に彼女の足音とひゃっという叫び声がからみあってこ
だましつづける。きゃんきゃんきゃん。桜の花が散り敷く白い道に
気まずくたたずんだかれ自身も手負いの犬だ。
翌日の昼前、汀子から電話が入る。
「遊びにいってもいい?」