どうせ飛べないカモメだね p30

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「いや、晴れてきてるよ」
 佐々木は紙袋と薬を持って夢羅を出る。
 アパートへ帰ってきてドアをあけるなり電話が鳴る。遅滞気味の
仕事をせかせる電話かもしれない。電話には出ず、台所に入り、流
し台にたまった食器類を洗いはじめる。執拗に長いベルだ。たまり
かねてっ受話器を持つ。
「あした、主人が夢羅へいくみたいだから、行かないでいて」
 わけのわからぬ汀子の注文である。
 だいたい、本社がどこあるか知らないが、泊まりがけでいってい
るはずの夫が、あすは夢羅へ、とは、どういうことだろう。スナッ
クあたりへ行くのにいちいち予定を立てたりするのは、社用という
こともあろうが、それにしても、粂と鉢合わせをするとどんな不都
合があるのか、理由をきくのもわずらわしい。
「胃のことがあるから、おとなしくしています」
「だいじょうぶ? それじゃお願いね。おだいじに」


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 仕事をもらっている建築会社の課長に誘われて、二軒、梯子をす
る。課長は長尻のできない呑み手で、まだ八時をまわったばかりで
わかれ、佐々木は帰路の電車に乗る。
 二つ三つ駅を通りすぎたところで、とつぜん、
「なんだ、文句あんのか」と剣呑な声がする。だれがだれにいった
のかと声がしたほうを窺うと、向かいの座席の男が吊革をつかんで
立っている乗客のあいだから佐々木を脱んでいる。声のぬしだ。酒
に酔っている目である。たまたま目が合っただけかとおもったが、
じつと脱み据えている。革に似せた黒い化繊のブルゾンを着た、肌
の浅黒い三十くらいの頭の小さい男だ。
 男のとなりに座っていたサラリーマンふうの男が虞れをなしたか、
うるさがっただけか、すっと席を立つ。四人がけの椅子の端のもう
ひとりの学生ふうの男が身じろぎ、寝たふりを決めこむ。
 車内は混み合っているというほどではない。立っている人がそれ
が礼儀とでもいうみたいに佐々木と男との空間をあけて脇へ移動す