バッグをストゥールの下に置いて、美弥に勧められた席に着く。
カウンターに肘をつき、黒ブルゾンの背を膨らませてふっと溜息を
もらす。佐々木は声をかけたものかどうか思案する。
低くしてあった有線放送の音量があがる。
〈めそめそするのは女、くよくよするのは男……〉
アローナイツが唄っている。
佐々木はトイレに立ち、出てきて、ビールを呑みはじめている男
にささやき声で切りだす。
「さっきは、どうも。でも、あれ、ほんとに持ってるんですか」
佐々木をぐいと睨んで男はいう。
「なんだい。いきなりよ」
「あ、ぼくですよ。ほら、さっき、電車のなかで」
「電車ってなんだ。おれあ、おめえなんか知っちゃいねえぞ」
「だって、あなた、あれでしょ。網走の」
男は改めて佐々木を見る。
「またか」だれかがつぶやく。佐々木にくりかえし網走男の話を聞
かされていた客だ。
客たちの連中のざわめきに用心深いまだらな空白が生じる。
「さっき、あなたがそういってたから。バッグに、あれが入ってる
って」
「あれって、なんだ。なにをいってるんだ、おまえ」
「佐々ちゃん」カウンターのなかから美弥が呼ぶ。「じぶんの席で
お呑みなさいな」
「どうも、失礼……」
男に言う。男が舌うちをする。佐々木はふらつきながらボックス
席へもどる。電車で見たときほど男は酔っていない。
男はビールの中瓶をほとんど一気に呑んでしまうと「いくら」と
きく。つきだしの小鉢に載った割箸は箸袋に入ったままだ。
金を払って出ていこうとしながら、男は「おい」とボックス席の
佐々木を呼ぶ。「ちょっと来い」
声音は静かだ。店内がしんとする。
やつの持物について笑いとばしたやつらが、いま疑心暗鬼にとり
つかれてびくつき、そらをつかっている。それ見たことか。
「どうしたの」サトコが席を立ちあがりかけた佐々木にきく。彼女
には網走男の話をしていないらしい。