どうせ飛べないカモメだね p37

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「なんだ、いまの」ドアから店へ半身を入れたのは粂だ。粂は店内
の異様な静けさに気がついて、かさねて訊く。「どうしたんだ……」
 だれもこたえようとしない。佐々木はボックス席へもどる。足が
もつれる。
 美弥の表情が不機嫌に曇る。汀子をつれもどしにきたのだろう。
粂はピンクの棒縞のパジャマを着ている。妙な色のものを着ている
な、と佐々木はおもう。前がよじれているのはボタンの穴を段ちが
いにかけているためだ。粂のただならぬ顔つきに店内がなお静まり
かえる。粂はカウンターとボックス席のあいだを進み、華奢な躰を
いっそうすぼめた汀子の背後に立つ。腕をあげた。あっというまに
こぶしで彼女の側頭部を殴っていた。にぶい肉の音がした。汀子に
よれば手をあげたことのないはずの粂が、まるでやりつけているか
のように暴力をふるっている。
「なに、あれ……」おどろいたようすで仮名サトコが佐々木に訊く。
「旦那。あの人の」
「よしなさいな」美弥がさけぶ。
 粂はつづいて後ろから腕をまわして汀子の首を締めあげる。汀子
のからだがストウールごとぐらぐら揺れる。
「おやめなさいな、粂さん」ふたたび美弥がことばだけで制する。
 ひっ、ひっ、と汀子が息をつく。隣席の小野瀬はのけぞって粂の
ふるまいを傍観している。床でグラスが割れる。
「外でやりなさい」美弥がさけぶ。「こわしたものは弁償してもら
いますわよ」
 佐々木が立ちあがる。
「ほっとけば」サトコが佐々木の腰にふれる。
 たったいま拳銃を持った男に丸腰で立ち向かったばかりだ。気負
いがある。不確かな足どりで粂のそばに立つと、後ろから腋の下に
手を入れる。粂のでっぷりした肉が腕に吸いつく。装身具屋がむっ
とした顔を向ける。仲裁なんかするな。目顔でそういっている。ス
トウールごとかたむいた汀子の両手が宙におどる。かれら夫婦と三
人で妙なかたちでつながっている。粂が首をねじって佐々木を見る。
ぎょろ目が血走っている。
「き、き、きさま。よ、よけいなことするな」
 汀子のからだが伸びて、するりと夫の腕からのがれる。あっけな
い。男同士が蝿のようにつるんでいるばかりになる。羽交い締めを